日本南アジア学会

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「先達に聞く」録音記録

「先達に聞く」録音記録

 日本南アジア学会28回全国大会 ■■

先達に聞く 第3回

報告者 小谷汪之先生(東京都立大学名誉教授)

聞き手

黒崎卓先生(一橋大学教授)
田辺明生先生(京都大学教授)

司会 小川道大(東京大学/人間文化研究機構)

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小谷汪之先生

●黒崎卓 みなさま、「先達に聞く」のイベントに参加いただき、どうもありがとうございます。この「先達に聞く」というシリーズは、日本南アジア学会の常務理事会による特別企画として、2年前の大会からはじまりました。私は今回の「先達に聞く」担当の常務理事の一橋大学の黒崎です。

 前回までは、担当の常務理事が聞き手か司会者のどちらかをしていたのですが、今年は私の専門から遠いため、私は最初の紹介だけで失礼します。この「小谷汪之先生に聞く」というイベントが、京都大学の田辺明生先生がメインの聞き手、司会者が東京大学の小川道大さんで、三者鼎談のかたちになれば、企画した者としてはうれしいと思っております。

 1枚紙の追加の資料を小谷先生からいただいておりますので、それもお受け取りください。90分の時間をとっております。よろしくお願いします。

 私はこの全国大会の実行委員でもあります。今大会では全体シンポを省きましたが、それに代わるものとして、この「先達に聞く」を、ほかにパラレルセッションをまったく設けない、プレナリーセッションとして企画しました。このような大会の開催方法についても、アンケート等でご意見を知らせていただけるとありがたいです。それでは、司会の小川先生に代わりたいと思います。

●小川道大 ありがとうございます。みなさん、こんにちは。私は「現代インド地域研究」東京大学拠点(TINDAS)で研究員をしております、小川道大と申します。きょうは司会をいたします。どうぞよろしくお願いします。

 すでに黒崎先生からご紹介があったのですが、本日は東京都立大学と千葉大学で教鞭をとられて、戦後日本におけるインド史学──おそらくインド史学だけではなく歴史学全体だと思うのですが、その発展におおきく寄与された小谷先生にお話をうかがいたいと思います。

 いままでの2回は、インタビュアーの方にお願いして、司会は横にいるかたちだったのですが、じつは私も小谷先生と同じくインドのマハーラーシュートラ、マラーターの社会経済史を研究しております。最初にマラーターの歴史を学び、その言語を勉強しようと思い、修士のときに小谷先生に直接マラーティー語を教えていただいたという経緯もありまして、今日、ここにおります。私も、インタビューに参加するかたちをとりたいと思います。

 まずインタビュアーの田辺先生からインタビューをはじめていただきたいと思います。よろしくお願いします。

●田辺 どうもありがとうございます。小谷先生、今日はおいでいただき、ありがとうございます。小谷先生はご存じのとおり、大きな歴史観、社会観、世界観をいっぽうで考察されながら、もういっぽうでは、緻密な資料の実証的批判にたったご研究をなさっておられて、大きな問いを発しながら緻密な研究もなさるという、研究者として理想的なかたちを体現されていると私は思っております。

 私は修士課程でカーストを勉強したときに、ちょうど先生の中世カースト社会のご本が出まして(『インドの中世社会 村・カースト・領主』岩波書店、1989年)、それにたいへん感銘を受けました。以来、小谷先生のカースト論を勉強しながら、自分自身の研究も進めています。

 きょうはせっかくの機会ですので、先生のこれまでの経歴をふり返っていただきながら、いろいろとお話を聞きたいと思います。まず先生の生い立ちなどもふくめながら、どうして歴史学を研究されようと思ったのか、またどうしてそのなかでもインドを学ぼうと思われたのか、そのあたりについてお話しいただけますでしょうか。

●小谷 はい。ただ、こういう場には、私より先に出てこなければならない方が何人もいらっしゃると思うのです。私の大先輩に山崎利男先生がおられますし、辛島昇先生、長崎暢子さんと、先日亡くなりましたが山崎元一さん。こういう人たちがこうした場で話をされていないのに、「私が」というのはおこがましい話で、少し気が引けるところです。ですが、一昨年でしたか、小西さんの「先達に聞く」の話を聞いていたら、ようするにそういう偉い人は「こんなのいやだ」と断って、私みたいなところへくるということで。(笑)そう思えば気楽でいいかということで、気楽にお話したいと思います。わたしももう老い先短いと思いますので。

 自分で言うのも変ですが、私はたいへん謹厳実直な研究者にみえると思うのですが、若いころはめちゃくちゃでありました。そのへんのところを最初に、いまの田辺さんの質問とあわせて話したいと思います。

 なぜインド史をはじめたのか。これをいわれると困ります。さしたる理由はないし、なにが契機でこんなバカなことになってしまったのだろうといつも思っているので、困るのです。(笑)

 私が出た高校は東京都立小石川高校という高校ですが、高校時代は理系も文系もどちらも好きでした。物理学や数学も好きでしたし、歴史や文学も好きでした。大学に行くときに、理系に行こうか文系に行こうか、ずいぶん悩みました。そのころまではまじめだったのでしょうね、世のため人のためになりたいと思って、理系に行くつもりで、物理の物性(物性物理学)とか、応用化学とか、みなさんの幸せのためになるような学問をしなくてはいけないと思って、理系を受験したのですが、どうもうまく受からない。

 浪人しているうちに、だんだんと体の具合も悪くなって、人のため世のために生きるのがバカバカしくなって、いちばん役に立たない文学部へでも行こうかと、文学部に決めて、転身しました。そのときも、文学にするか歴史学にするか、どっちかと考えたのですが、文学で飯を食える自信がなかった。歴史学くらいならなんとかなるだろうと思って、歴史学にすることにしました。

 高校時代には歴史の本をたくさん読んでいて、日本史の本では、たとえば岩波新書の日本史関係の本はぜんぶ読んでいたと思います。それ以外に、一種のエキゾティシズムといいますか、当時は井上靖という作家の「西域もの」がかなりの人気を呼んでいました。『敦煌』とか『楼蘭』とか。あのもとになったのは、スウェン・ヘディンという探検家の『中央アジア探検記』や『さまよえる湖』などの作品です。ああいう本を読みながら、「中央アジアに行きたいな」と思ったりしました。

 あるいは、若くして死んだ小説家に中島敦という人がいますが、『李陵』や『名人伝』など、中国の古典に材をとった優れた作品を書いた作家です。その中島敦の『光と風と夢』に感動しました。これは『宝島』の作家として有名なロバート・スティーヴンソンが南太平洋のサモアで晩年の4年間生活したときのことを書いた作品で、それを読んで「サモアに行きたいな」と思っていました。

 ということで、歴史学をしよう、それもヨーロッパ史や中国史などのまともなものではない、もっとはぐれたものをしたいと思っていました。駒場(東大教養学部)を出た人はわかると思うのですが、駒場は成績でゆく先が決まるのです。一所懸命に勉強して、よい点をとらないと、たとえば教養学部教養学科なんて、田辺さんが出ているような秀才コースにはとても行けないのです。私は駒場であまり勉強しませんでしたので、いちばん最低点で行けるところというのは、イン哲(インド哲学科)とか(笑)中哲(中国哲学科)や東洋史なので、超低空飛行で本郷の文学部東洋史学科に軟着陸をしました。

 その先なぜインド史になったかというと、これが判然としません。今日いらっしゃらないから、オフレコにしておいてほしいのですが、山崎利男先生のせいではないかと思うのです。山崎先生は当時、東洋文化研究所の助教授だったと思うのですが、文学部で兼任講師として、インド史の授業をされていました。

 卒論を書かなくてはいけないという時になって、どうしようかと思いました。中国語はできないし、漢文もよく読めない、英語でごまかそうと思って、英語の文献を山崎先生に聞きに行ったのです。山崎先生という人は生粋の神田っ子、江戸っ子で、早飲み込みの早とちりの典型のような人です。(笑)「先生、これを教えてください」と言うと、「あ、君はインド史をするのですね」と。(笑)これはまいったと、一瞬虚を突かれて、「いえ、そんなこと絶対にやりません」と言えなかったら、いつの間にかインド史になってしまって。

 それから毎週山崎先生に呼びつけられて、「この問題について文献目録をつくってこい」と言うのです。あの人は文献の鬼で、読んでいるのかどうかはよく知りませんが、文献については非常によく知っておられる。それで、文献目録を毎週つくらされたわけです。もっていくと「こんなものはだめ」とみんなだめだめと言われた。それで文献はずいぶんと知ることができました。

 そのようなことで「インド史にするか、しょうがない」と思って、インド史になってしまいました。卒論のときは山崎先生がインドのプネーで勉強されていたこともあって、「あの辺のことをやったら」と言うので、ボンベイ(ムンバイ)にしようとなりました。卒論は古い『ボンベイ地誌』、あれは優れた文献だと思うのですが、1870年代に出たGazetteer of the Bombay Presidencyをもっぱら資料にして、ボンベイの周辺の社会経済史みたいなことをちょこちょこっと書いてごまかして、卒業したのです。そういうことで、さしたる動機も何もない状態でした。

●田辺 そのあと、どのように留学に至ったのでしょうか。

●小谷 それがまた変な話でして。当時、一橋大学の深沢宏先生がロンドンのSOAS(School of Oriental and African Studies)に留学されていました。深沢先生の勉強ぶりを見ながら、大学院のころ、自分もぜひどこか外国に行って勉強してみたいなと思っていたのです。それで、深沢先生に「SOASになんとか潜り込めないでしょうか」と手紙を書いたら、「なんとか入学許可をとってやるから、来なさい」と言ってくれて、本当にペルシャ語科の入学許可をとってくださったのです。なぜペルシャ語科なのかはよくわからないのですが。(笑)それで、親父を説得して、お金を出してもらって、行こうかとなった。向こうへ行けばなんとかなるだろうと深沢先生がおっしゃるので、修士課程2年のときですから、気楽なもので、出かけようと。

 たまたま私の父親は、いまでは少し大きくなっていますが、当時は小さな半導体の専業メーカーを経営しており、アメリカへよく技術を盗みに行っていたのです。そのときもちょうど親父がアメリカへ半導体技術の研修というか、工場を訪問して技術を盗んでくるという、そういうことになって、かばん持ちが一人いるというので、一緒にアメリカに行ったのです。それからイギリスへ行こうと。

 アメリカで1か月くらい父親と一緒にそういうことをして、そのときにつらつらと考え、大西洋を渡ってロンドンに行けばすぐロンドンに安着したはずなのですが、それではつまらないから、サンフランシスコ経由でハワイに行こうと考えました。先ほど言ったように、サモアに行きたかったものですから。(笑)ハワイからアメリカ領サモアのパゴパゴまで、小さな飛行機で飛んでいきました。

 そこから隣の島の西サモア共和国、今のサモア独立国の首都であるアピアに行きました。スティーヴンソンはアピアの近郊で4年間ぐらい農園を経営しながら、執筆活動をしていたのです。アピアから南へ5キロくらいのところに、ヴァエア山という標高500メートルぐらいの山があり、その東の山麓に農園があった。スティーヴンソンはそこで脳溢血の発作で死ぬのですが、そのお墓はヴァエア山の頂上につくられています。そのお墓参りをしたり、サモアの海で泳いだりと、1週間ばかりぶらぶらしました。

 そろそろロンドンに行こうかと、まずシドニーに行って、ボンベイ経由でロンドンまで行く手配をしたのです。ところが、シドニーからアリタリア航空でボンベイに飛んでいく機中で、猛烈な下痢を起こして、ボンベイに着いたときには、まったく足腰が立たないような状態でした。ホテルに放り込まれて、そのまま2、3日意識がはっきりしない状態になってしまいました。なんだったのかよくわからないのですが、疲労も重なっていたのでしょう。

 そうしてふらふら1週間くらい滞在していると、ボンベイに私の父親と関係の深い電気メーカーのM・G・バットさんという人がいて、そのバットさんがホテルへやって来て、「もう飛行機もロンドンに行ってしまったし、ロンドンに行くのをやめてインドにいろ」というのです(笑)。それで、めんどうくさくなったから、深沢先生に「たいへん申しわけない」という手紙を書いて、ロンドンに行かず、ボンベイにとどまってしまいました。そのバットさんというのは有力者だったのだと思うのです。たんなるトランジットビザで、長期滞在ビザではなかったのですが、数日で留学生ビザに代えてくれたので(笑)、そのままボンベイ大学に潜り込みました。

 ボンベイに1年間いて、そのときに深沢先生がロンドンからの帰りがけにボンベイに寄ってくださって、いろいろと話をして、ボンベイより、グジャラート州のバローダー(ヴァドーダラー)のマハーラージャ・サヤジーラーオ大学の歴史科へ行き、あのへんの歴史を研究したほうがいいのではないかということになりました。それで、深沢先生がよくご存じのミシュラさんという先生に紹介していただいて、バローダーへ行き、歴史学のディプロマコースという1年のコースに入りました。ミシュラ先生の授業はつまらなかったのでぜんぜん出なかったのですが(笑)、好き勝手なことを1年間しました。

 インドに合計2年間くらいいたときに、猛烈な肝炎にかかってしまいました。バローダー大学の寮にいたのですが、体がだるくて、動くのもいやで、どうしたのだろうと思っていたのですが、ある朝トイレに行っておしっこをしたら、尿が真っ黒だったのです。醤油よりも黒い、真っ黒な尿が出てきて、「これはもうだめだ」と思いました。まわりの学生も「ジョンディス(黄疸)だ」と騒ぐので、医者へ行ったら肝臓がパンパンに腫れているといわれ、そのまま入院しました。3週間ちょっとくらいだったでしょうか。

 治ったというか、退院しましたが、ふらふらして、どうにもならないので、しかたがないとあきらめて日本へすごすごと帰ってきました。どうしようもない状態で、留学なのかなになのかよくわからないことでありました。日本に帰ってきた時、27歳か28歳になったばかりだったと思います。帰って来てみたら、東大安田講堂が焼け焦げになっていた。(笑)そういう時代でした。結局、修士課程には4年間いたと思います。

●小川 先生の研究のこともうかがいたいのですが、先生の本をいろいろと勉強していると、研究のテーマは職分権──「ワタン」。土地ではなくワタンというものが在地社会を動かしていたという議論だったと思うのです。いちばん聞きたかったのですが、ワタンをどういう経緯で注目するように至ったのでしょう。

●小谷 17、18世紀が中心ですが、マラーティー語文書を読んでいると、社会的にいちばん尊重される権利は土地所有権ではない、土地はほとんど売買されることはなく、土地そのものが売買されたという史料はほとんどまったく出てこない、ということに気付きました。売買されたり、相続されたりする権利はほとんどワタンvatanという、ある職業に従事して、その職業に付随する取り分を取る権利、この職業と取り分権がワンセットになったものなのです。中央インドやデカン北部では「ワタン」といわれます。南のほうに行けば、ドラヴィダ系というかタミール語圏でいえば、「カーニkāṇi」や「カーニヤーッチkāṇiyāṭchi」といわれる権利です。北インドだと、「ブリッティbhṛtti」や「ビルトbirt」と呼ばれる。

 家の職が世襲化され、家の職にともなう取り分権が家産として世襲される。家の職と家の財産とが一体化したもの、いわば「世襲的家職・家産」が相続や売買の対象として、さかんに文書に出てくる。そうしたものをみていて、インド社会というのは、土地所有関係から研究したのではだめなのではないかと思ったのです。

 その前に少し経緯があって、私がインド史の研究でもしようかなと考えていた頃、これは東京のほうの話ですが、インド史研究会というのがありました。中心は荒松雄先生や松井透先生、山崎利男先生といった人たちです。このインド史研究会が、インド史の東京の大きな拠点でした。インド史研究会については、15年くらい前に、辛島昇先生、山崎元一さんと一緒に『インド史研究会の歴史』という小冊子(非売品)をつくりました。

 このインド史研究会で主として勉強していたのが、土地制度なのです。いろいろなことをしましたが、中心的なのは、ベーデン・ポーエルという人物のThe Land Systems of British Indiaという大きな3巻本でした。クラレンドン・プレスというオックスフォード大学の出版社から出た、こんなに大きな部厚い本でした。これをみんなで輪読し報告し合うということを、とくに松井透先生を中心にしていました。そこではつねに土地制度が問題でした。

 そうしたわけで、私ももともとは土地制度、いいかえると「土地所有関係史」でインド社会論をしてゆくのが当然のように思っていたのですが、史料を読みだしてみると、「どうも土地所有関係は、たいした意味がないのではないか」と強く感じるようになった。先ほど言いましたような、「ワタン」、「カーニ」、「ブリッティ」などということばで呼ばれるような、「世襲的家職・家産」、これに注目をすべきではないかと考えるようになりました。

 もうひとつは、バローダーの大学にいたときになにをしていたかということです。スーラトという港町がありますが、そこを中心とする南グジャラート地方というところがあります。そこに「デサイー(Desai)」という名前のカーストというかコミュニティ、「アナヴァラ・デサイー」あるいは「アナヴィル・デサイー」と呼ばれるコミュニティがあります。デサイーというのは、デカン高原部のデーシュムクや北インドのチョードリーにあたるような在地の地域社会の代表者で、50か村前後の村々を束ねる地域社会の首長の階層です。南グジャラート地方ではそれを「デサイー」という。カルナータケ地方などにも「デサイー」という階層がいますが、南グジャラート地方のデサイーは例外的にバラモンのデサイーなのです。

 デサイーの家はみな有力な家なので、バローダー大学の寮には、デサイーの学生がたくさんいました。そのデサイーの学生さんたちに、実家に紹介状を書いてもらって、デサイーの家を訪ねまわっておりました。スーラトの駅前の安宿に泊まって、バスに乗って、近隣の町や村のデサイーの家を訪ね歩いて、史料をみせてもらったり、農家経営をみせてもらったりということをしていました。このデサイーたちはバラモンであるにもかかわらず、農業を生業としていたのです。

 1977年にそれまでのインドの鉄の女、インディラ・ガンディーの内閣に代わり、はじめての非国民会議派の内閣ができます。インド国民会議派の一党独裁が終焉した1977年、あのとき首相になったのはモラルジー・デサイーという人ですが、このモラルジー・デサイーはアナヴィル・デサイーで、南グジャラートのデサイー・コミュニティの一員なのです。

 ということで、アナヴィル・デサイーには有力な家がたくさんありました。たとえば、あるデサイーの家に行ったとき、そこの引退した老人は、バローダー藩王国の高等裁判所の裁判長だったという人でした。だいたいどこのデサイー家に行っても、英語ができる人がお年寄りにいるのです。私のグジャラート語はいい加減なものですが、そういう立派な英語をしゃべる人がいるおかげで、どこへ行ってもいろいろと教えてもらえました。

 こういう地域社会の首長であるデサイーの家、こういう存在がインド社会の要になっているのではないかと考えました。デカン高原部でいうと、デーシュムクの家です。デーシュムクやデサイーを中心とする地域社会が強固にできている。その地域社会を編成する原理が、たとえば「ワタン」と呼ばれる家職と家産がワンセットになったもので、「デサイー・ワタン」や「デーシュムク・ワタン」といういい方をされるのです。地域社会とその内部を編成している「世襲的家職・家産」とでもいうべきもの、これが前近代インド社会の構造の要ではないかということは、修論を書くときから考えていて、ワタン体制というのはその延長で考えたものです(拙著『インドの中世社会』参照)。

●田辺 先生のインド社会論の要がワタン体制論、世襲的家職・家産の体制だと思います。インド社会でつねにカーストが議論されるのですが、カーストは歴史的に長いもので、先生のご論のなかでは、カーストとワタン体制は裏表であるとおっしゃっている。近世をみるとそのとおりとしか思えないのですが、カーストはワタン体制を越えて歴史的に長い部分もありますし、地域社会を超えて繋がっている部分もあります。もういちどカーストとワタン体制、この二つの関係についてお話いただけますか。

●小谷 50か村ぐらいの村々から成る地域社会を単位とするカーストは多いと思うのです。たとえば、大工さんのカーストを考えた場合、大工ってどういう単位でまとまってひとつのカースト集団をつくっているのだろうかと考えてみると、一次的には50か村くらいの範囲の地域社会で結集している、「なになに地域社会の大工カースト」というように。そこには(かしら)がいる。大工頭がいて、その地域社会のなかの50家族、60家族ぐらいの大工を束ねている。それがカーストの基本単位です。

 しかし、カーストの拡がりはもっと広いので、例えば隣の地域社会には同じ大工カーストの別の集団がいる。そういう近隣のいくつもの大工集団とつながることによって、カーストは二次的に、ネットワーク的に拡がってゆく、そういう二重構造をもっているのがカースト集団のあり方だと思います。あくまでも基礎単位は地域社会である。デーシュムクやデサイーを頂点とする地域社会の範囲で、まず一次的に結集していて、まとまっている。

 それがとなりのそれぞれの地域社会の同じカーストとネットワーク的にずっと拡がって、最大限どこまで拡がっていくかというと、いちばん広くとると、マラーティー語をしゃべる範囲でしょう。マラーティー語をしゃべる大工カーストの範囲というのが、最大限の拡がりだと思います。ただし、マラーティー語をしゃべる大工の範囲といっても、何百キロも離れてしまったら、実質的にはほとんど関係がなくなるのではないかと思いますが、カースト・ネットワークの範囲を最大限に取ると、言語グループの範囲だと思います。

 このような二重構造をもつカーストが多いのですが、たとえば、グジャラートの海岸部のスーラトやアフマダーバードなど、都市的なカースト──商業カーストや都市の職人カーストをみると、結集の原理がどうもぜんぜん違うみたいです。かつて農村型カーストと都市型カーストと2類型に分けてみたことがあるのですが、都市型のカーストは地域社会単位で結集しているわけではなく、都市単位だと思うのです。「スーラトのなんとかカースト集団」とか、「アフマダーバードのなんとかカースト集団」というように、都市単位で結集しているみたいです。こちらはなかなかマラーティー語の史料には出てこないので、英語史料でしかわからない。そういう都市型カーストは地域社会の範囲を越えた、違う原理で拡がっているのだろうなと思うので、同じカーストといっても少し違うと思います。

 農村型のカーストは「ジャーティjāti」と呼ばれますが、都市型のカーストは「ジャマートjamāʻat」ということばで呼ばれている場合が多いようです。「ジャマート」はペルシャ語、アラビア語で集団という意味です。それから、もっとおかしいのは、グジャラティー語です。カーストのことを「ニャートnyāt」と呼ぶのです。この「ニャート」とはなんだろうと思って、よくよく考えてみると、「ジャーティ」といういい方とともに、カースト集団をあらわすことばで、「ジュニャーティjñyāti」といういい方があるのです。「ジュニャーティ」の「ジュ」がとれると「ニャート」になってしまうので、グジャラティー語で「ニャート」と出てくるのは、「ジュニャーティ」がなまったことばなのだと思うのです。ただ、多くの場合は「ジャマート」というペルシャ語の言葉が、カースト集団をあらわす言葉としては使われていたようです。カーストについては、都市のカーストがいまひとつ史料不足でよくわからないとは思うのですが。

●小川 もう少しワタンとの関係で伺いたいのですが、マラーター王国のあった18世紀というのは、最近の研究では、地方経済があるていど発展していた時代で、そうするとワタンという主従で取り分を渡す関係と、それ以外に市場との関係を考える必要があると思うのですが、どうお考えでしょうか。

●小谷 最終的にはマーケットの関係が広範に展開すれば、ワタン体制は崩壊してゆくと思うのですが、18世紀末までだとその段階まではいっていなかったと思うのです。そのうえ、ワタン体制みたいなものは、マーケット・エコノミーが発達してきても、かんたんにそれに屈服しないところがあります。

 たとえば、村市場ができるとか、市場町ができるとかして、そこにいろいろな人が集住してくる。しかし、そういった場合も、たとえば市場には市場長のワタンという新たなワタンが生まれたり、市場書記のワタンが生まれたり、市場の番人のワタンができて、マーケット・エコノミーが展開する場であるなかにも、ワタンの原理が浸透していってしまう。

 それから、たとえば村の中にまで商品経済が侵入していって、村に商店ができる、商人が店を開くとか、商品生産者、商品販売者として、村に入っていくものが現れる。早くから入るのは油屋さんだと思うのですが、しかし、油屋さんが村へ進出して、村で店を開こうという場合には、村に申請してその村の「油屋ワタン」というものをもらわないと店が開けない。

 野放図にマーケット・エコノミーが浸透しないように、ワタンの原理でそれを統制するといいますか、そういう力がつねに働いて、発達してくる商品経済をワタン体制のなかにどんどん取り込んでゆく。その結果、新たなワタンがたくさんつくられる。それが18世紀の段階だと思います。それがとうとう無理になったら、ワタン体制が崩壊へ進んでいっただろうとは思うのです。イギリスの植民地支配がはじまった19世紀初頭の段階では、まだ崩壊に至るまでは進んでいなかったと考えています。

●小川 ちょうどいま先生におっしゃっていただいたのですが、その崩壊というか、これはどのように終焉していったのか、植民地支配との関係で教えていただけますか。

●小谷 植民地時代になると、やはり国家的政策の問題が大きな力をもってきて、ワタン体制はたしかに19世紀の植民地支配下に解体に向かうのです。しかし、先ほど言ったような商品経済の展開にともなう自然的な解体への道を辿ったのではなく、上からの植民地統治政策による強制的解体をともなって、進行したと思います。したがって、これを連続してとらえることは難しい。そこに一つの断絶があるのだと私は思っています。

 いわゆる「インド史における18世紀問題」というものです。イギリス植民地支配の前後で連続性を強調するか、断絶を強調するかというのは、いろいろ議論されたところですが、私はやはり断絶の方が大きいと思っています。ワタン体制の解体は自然的解体ではなく、イギリス植民地政策下における強制的解体の性格が強いと考えています(拙著『インド社会・文化史論』第3章、参照)。

●田辺 ありがとうございます。ワタン体制について、そして植民地経営の移行については議論が尽きないところで、もっとお聞きしたいのですが。小谷先生のお仕事というのは、こうした社会制度の問題、それから国家や市場の問題、それらにとどまらず、文化的価値の問題にまで議論をされている。私のように文化人類学をしている者からみると、その視野の広さにたいへん驚き、感銘をいつも受けています。

 先生の出されたもうひとつの大きなテーゼが、インド史の底流にある「罪の文化」だと思うのです。これまでインド社会を理解するための「浄・不浄」の考え方から、オルタナティブの文化的な枠組みを出されたと思います。今一度、罪という観点が、たとえば穢れや浄、不浄とどう違うのか。罪からインド社会をとらえることが、先生の考えていらっしゃるワタン体制論とどのように繋がるのかについてお話いただけますでしょうか。

●小谷 これは歴史学ではあまり扱っていない問題で、むしろインド学であるとか、人類学の人がよく扱ってきた問題であろうと思います。インド学の専門家、たとえばマヌ法典の翻訳(中公文庫版)をされた渡瀬信之さんの『マヌ法典――ヒンドゥー教世界の原型』(中公新書)を読んでいると、たいへんおもしろい。それから、人類学の関根康正さんの『ケガレの人類学』(東京大学出版会)を読んでいてもおもしろいと思うのですが、そのあいだの歴史がすっぽり抜けている。インド古典学研究の対象と現代の人類学的研究の対象とのあいだの歴史的な分析といいますか、歴史的アプローチがこの問題についてまったくない。そこまで言っていいかわかりませんが、ほとんどないのです。奇妙な状況であると思うのです。

 インド古典学ではこういう議論をする、人類学は現代社会を観察してこういう議論をする、そのあいだが2000年くらいすっぽり抜けているというのは、どう考えてもまずいことなのです。できるかぎりそのあいだを埋める歴史学的なアプローチがこの問題についても必要だと思います。デュモンの本(ルイ・デュモン、田中雅一他訳『ホモ・ヒエラルキクス』)を見ていても、歴史の部分がスパッと落ちていて、古典と現代が直結している。それはある事象を理解するうえで、好ましくないことであると思います。

 こうした問題にも、歴史学的な方法やアプローチでなにか問題を提起することができないかと考えてきました。マラーティー語の史料は、17、18世紀が主なので、歴史といっても現代に近いほうなのですが、それらをみていると、罪や罪の浄めといったことがたくさん出てきます。17、18世紀のマハーラーシュートラを生きた人びとは、日常つねに朝から晩まで罪の観念につきまとわれて、たいへんな生活をしていたのではないかと思うくらい、いやになるほど罪の問題が出てくる。

 たとえば、ある農民が乳搾りをしていて、牛が足で蹴飛ばそうとしたとして、頭にきてボカンとひっぱたいたら、牛が死んでしまった。牛殺しは二大罪の一つです。「ブラフマハティヤー、ゴーハティヤー」というのはマラーティー語の決まり文句で、バラモン殺しと牛殺しです。牝牛を殺すのはバラモンを殺すに等しい大罪とみなされていました。それで、この農民は慌てて、この罪をそのまま黙っていると地獄へ落ちてしまうと、罪の浄めの儀式を必死になって受けさせてもらう。そういう史料がいやというほど出てきます。

 これはマハーラーシュートラ、マラーティー語世界だけの特殊な現象かというと、違うのではないかと思うのです。ただし、他の言語世界についてそういう史料があまりないようで、よくわからないところですが、ともかく罪はたいへん重大なものであった。罪を浄める儀式は「プラーヤシュチッタ」prāyaścittaと総称され、いろいろな方法がありますが、このプラーヤシュチッタの儀式もいやになるほど出てきます。

 そのいっぽうで、穢れを浄めるという史料はまったく出てこない。穢れを浄めなければいけないという文書は、これまで一度もみたことがありません。どう考えても、17、18世紀のマラーターの世界では、穢れはたいしたことではなく、罪のほうがはるかに重大であったということを、史料上で強い印象を受け、いろいろと考えてみました。

 そこで田辺さんの質問にあった、「罪と穢れはどういう関係にあるのか」、「浄と不浄と罪はどうなのだ」、「罪と穢れと浄と不浄」、この四つの関係はどのように考えられるか。こういう問題について、あらためて整理をして、お話ししたいと思います

罪を犯すと一時的な不浄状態になる。この不浄状態というのは、あくまでも一時的な状態です。罪を犯すと、一時的に不浄の状態になる。したがって、浄めなければいけない、浄めの儀式を受けなければいけないというのが、一つの文脈です。

 それから、穢れに触れる、あるいは穢れが身におよぶと、一時的に不浄の状態になる。その不浄の状態を浄めるためには、たとえば沐浴をするとか、そういうことをしなくてはいけない。これがもう一つの文脈です。

 この二つの文脈、すなわち「罪―不浄状態―浄める」、「穢れ―不浄状態―浄める」という二つの文脈の双方において、「不浄状態」と「浄める」は、同じことばが使われています。「不浄状態」は「アシュッダ」aśuddha、「浄める」はサンスクリット語動詞の語根でいえば、「シュド」√śudhです。それをもう少し詳しく、サンスクリット古典における規定とマラーティー語史料の世界で展開したあり方とを対比的にみてみたいと思います。

 最初に罪、それ故の一時的な不浄状態、したがってプラーヤシュチッタによって罪を浄めなければいけないという文脈です。罪はサンスクリット語では、ふつう「パータカ」pātakaあるいは「パーパ」pāpaといいます。

 以下、サンスクリット古典としてマヌ法典を取り上げますが、マヌ法典の日本語訳は渡瀬信之さんの中公文庫訳からとったものです。ただ、おそらく中央公論社の自己規制だと思うのですが、穢れということばを忌避して、穢れがすべて「汚れ」になっているのです。しかし、汚れはやはりまずいと思うので、勝手に穢れに直させていただきました。それから浄める、不浄という場合のこの「浄」も、中央公論社の自己規制だと思うのですが、「清」の字で訳されています。これも「不浄」ということばを忌避したために、こちらにしてしまったと思うのです。ようするに、言葉狩りがたくさんあって、こういう言葉はつかってはいけないという出版上のタブーが横行した時期がありました。とくに差別の問題については、いろいろと難しい問題があって、言葉に非常にナーヴァスになっていた時期があった。そのためだと思うのですが、おそらく渡瀬さんの本意ではない訳がなされているところがあると思います。そこは勝手に変えさせていただきましたので、渡瀬訳とするのはまずいので、渡瀬さんの訳を勝手につかわせてもらったということになります。

 マヌ法典の第11章46節は「故意ではなくなされた罪(パーパ)はヴェーダの復唱によって浄められるśuddhyati」としています。罪(パーパ)を犯すと、不浄状態(アシュッダ)になるので、浄める(√śudh)ことが必要であると、そういう文脈です。

 それに対して、マラーティー語の場合は、「パーパ」はつかうのですが、「パータカ」はめったにつかわれない。宗教歌、御詠歌のように「マハーパータカナーシュナム」というような言い方の場合は「パータカ」が出てきますが、ふつうマラーティー語史料では出てきません。マラーティー語の史料で、罪で圧倒的に多く出てくるのは「ドーシャ」doṣaということばです。「ドーシャ」はサンスクリット語で罪というより「あやまり」、英語でいうと「フォールト(fault)」という感じの言葉ですが、マラーティー語ではあきらかに罪を意味します。

 次の史料は、浄めのための儀式をしてほしいという嘆願書なのですが、1792年のものです。「私は殺人の疑いが晴れて、牢から出されましたが、罪の浄めの儀式(プラーヤシュチッタ)を受けさせて、清浄にする(「シュッダ」にする)ということは行なわれませんでした」と書かれています。罪の浄めを受けていないと、カーストに復帰できないのです。そうすると困るので、「私にプラーヤシュチッタを受けさせて、私を罪(ドーシャ)から解放(「ムクタ」mukta)していただかねばなりません」。こうマラーター政府に嘆願したというわけです。「(なになに)から」というのはマラーティー語では「パースーン」という言葉ですが、「罪から(ドーシャ・パースーン)解放(ムクタ)する(カルネkarneṃ)という言い方が使われています。

 これはサンスクリット語文献では出てこないいい方でが、マラーティー語文献ではよく出てきます。「罪から解放する」という概念です。それで思い出すのは、渡瀬さんの中公新書の『マヌ法典』という本で、「罪の実体化」ということが書かれていることです。

 罪を犯すと、罪がなにか実体として、人間の体にくっついてしまう。したがって、罪を浄めるというのは、実は身にくっついている罪を除去する行為だと渡瀬さんは説明されています。それはマラーティー語のいい方、「私を罪から解き放ってください」といういい方に近いのではないかと思います。このように、マラーティー語の場合だと、「ムクタ」や「ニルムクタ」、「罪から解放する」という言葉がたくさん出てきます。「罪を浄める」というよりも、「罪から解放する」といういい方の方が、多く出てくるのです。

 ともかく、罪を犯すと一時的に不浄状態、「アシュッダ(不浄)」の状態になる。したがって、「プラーヤシュチッタ」と総称されるなんらかの儀式で、「アシュッダ(不浄)」の状態を「シュド(浄める)」しなくてはいけない。そういう考え方になっています。

 それはまったく穢れも同じことです。なにか穢れの発生するものに触る、たとえば死体に触ってしまう。そうすると、一時的に不浄状態(アシュッダ)になります。したがって、たとえば沐浴をして、「シュド」しなくてはいけない。穢れというのは、サンスクリット語では「アーシャウチャāśauca」という言葉です.

マヌ法典の第5章が穢れの浄めに関する章で、第5章58節は「歯が生じた幼児」などが死んだときに、全親族、いわゆる「サピンダ親族」という親族は、不浄(アシュッダ)となる、としています。59節は死体によって引き起こされる穢れで、「シャーヴァマーシャウチャśāvamāśauca」という言い方がされています。「シャーヴァムśāvam」が死体です。この穢れに触ると、不浄状態(「アシュッダ」)が10日続くとされています。

 それから第5章85節では、「チャンダーラ(ディワーキールティ)、月経中の女、パティタ(堕姓者=カースト集団から追放された者)、出産後10日未満の女、死体、彼らに触れた者――これらの者たちに触れたときは沐浴(スナーナ)によって浄められる」とされています。これは罪の場合とまったく同じで、「浄める」という動詞(√śudh)が使われています。

 マラーティー語の場合はどうかというと、マラーティー語にも「アーシャウチャ」という言葉があります。我々が今でも便利に使う古いモールスワース(Molesworth)の『マラーティー-語辞典』のなかには、「アーシャウチャ」という言葉が収録されています。そこに「プレーターシャウチャ」(死体pretaによる穢れ)、「ジャナナーシャウチャ」(誕生、生誕jananaによる穢れ)、こういういい方が挙げられているのですが、私がみたかぎり、マラーティー語の17、18世紀の史料には「アーシャウチャ」という言葉は、いちども出てきておりません。ただし、宗教文献をみれば出てくる可能性は強いと思うのですが、そちらは見ていないので、いまひとつわかりません。ともかく、一般的なマラーティー語の史料には、「アーシャウチャ(穢れ)」ということばは、まず出てこないのです。

 それはなぜかというと、穢れを浄めるという話がそもそも出てこないからなのです。罪を浄めるという話はいやになるほど出てくるのですが、穢れを浄めるという話はまず出てこない。一例を挙げれば、不可触民「ブダラーカル」Budhalākarの髪の毛を刈ってしまった床屋の陳述があります。「私はこういう罪を犯しました」という陳述書を「ドーシャパトラ」(罪の書)」といいますが、これはその一例で、1795年のものです。

 北デカンの聖なる川、ゴーダーヴァリー川、「ダクシン・ガンガー(南のガンジス川)」と呼ばれるあの川ですが、その岸辺である床屋が店を出していた。よくいまでもインドの道端で床屋がバケツかなにかに水を張って店を出していますが、あれと同じように店を出していたのでしょう。そこへある男がやってきて、「おい頭を刈ってくれ」と言うので、床屋が「いいよ」と刈り出した。そうしたら、そこへ同じカースト仲間の床屋がやって来て、「おいだめだよ、こいつはブダラーカルだ」と言う。ブダラーカルの頭を刈ってはだめだというわけです。ブダラーカルというのは、「ブダラー」とよばれる革の袋をつくる不可触民カーストです。とてもめずらしいカーストで、ほとんど出てこないカーストなのですが、なぜかここに出てきます。それで、その床屋さんは「しまった」と思い、仕事をやめて家へ帰った。

 何日かたって、知り合いの家でカーストの共食の会があるというので出かけて行ったら、「おまえにはブダラーカルの頭の罪がくっついているから、だめだ、入れてやらない」と言われて、困ってしまった。それで、この「罪の書」を書いて、その罪からの浄めの儀式を受けさせてくださいという願い出をした。そこに、「私にはブダラーカルの頭のドーシャ(罪)がありますので、それを解き放たなければなりません(ニルムクタ・カルネ)」と書かれています(『罪の文化』111ページ)。

 この例の場合、不可触民の頭に触ってしまったのですから、とうぜんそれは穢れが発生することになりますが、この床屋さんについて、穢れの問題はまったく出てこないのです。穢れを浄めなければならないという話はどこにもなくて、不可触民の頭に触ったことによって、「不可触民の頭の罪」がくっついているということが問題だったのです。

 穢れというのは、だいたい家へ帰って沐浴をすると、それで話は済んでしまうので、社会的問題にはならない。しかし、罪はそうはいかないので、きちんと届出をして、なんらかの浄めの儀式をバラモンにしてもらわないと、カースト仲間に入れてもらえないことになってしまう。それくらい罪のほうが優越した社会だと、マラーティー語の史料からは強く感じます。

 最後に、罪と穢れ、浄、不浄の関係はどういうことかということですが、不浄はあくまでも一時的な状態であって、不浄な人間というものは存在しないということです。したがって、不可触民は不浄な存在ではない。不可触民は穢れの源泉ではあるけれど、不浄な存在なのではない。人は穢れた存在としての不可触民に接触することによって、あるいは接触することによって生じた罪あるいは穢れによって、一時的に不浄の状態になるのであって、不可触民そのものが不浄な存在であるわけでは決してないということです。

 したがって、デュモンのように、バラモンをもっとも清浄なる存在とし、不可触民をもっとも不浄な存在とする、その両極のあいだにさまざまなカーストがさまざまな濃淡をもって、浄、不浄の階梯のなかに位置付けられるというイデオロギー的階梯を想定することは不可能であると私は考えています。その最後の部分がデュモンにたいする批判です。いま改めてまとめなおすと、このようになると考えています。

●田辺 ありがとうございます。もっとこれについてお聞きしたいのですが、時間の関係から、次の話題に移らせていただきます。ワタン体制あるいは罪の文化、こうした大きなテーゼを出されまして、いっぽうでインド固有の社会制度のあり方、あるいは歴史発展のあり方、あるいは文化的価値のあり方に注目をされているところが印象的です。たとえば先生が最近ウェーバー(マックス・ウェーバー)論を書かれていて、ウェーバーのインド観をもう一度評価なさっていることです。

 いっぽうで先生の過去の、たとえば『共同体と近代』という本を拝見しますと、マルクスのアジア観についてはご批判なさっていますが、マルクスの議論そのものが間違っているとは思わないということもどこかでお書きになられています。『共同体と近代』で扱われた共同性の問題というのは、やはりマルクスが考えていた問題系とも繋がるお仕事だと拝見しておりました。

 マルクスのような歴史観だと、歴史を一つの原理から説明することになります。いっぽう、ウェーバーのように、人はどのような文化的、価値を求めて生きてゆくのかという視点もあります。マルクス、ウェーバーとの関係で、先生はどのようにご自分の立場を位置づけられるのかをおうかがいしたいと思います。また、先生がこれまでの研究者人生のなかで、どのようにそうした位置を獲得なさってきたのかということについても、ほかの研究者との関係がありましたら、教えていただければと思います。

●小谷 私が大学に入ったのは1961年で、マルクス主義の影響力はだいぶ弱くなりはじめていたとは思うのですが、歴史学ではまだ強かったのです。それで、マルクスがNew York Daily Tribuneに書いた時評文などをもとに、マルクスのインド論といったことがさかんに議論されていました。それを読んでみて、どうしてこれほど馬鹿げたことを信じられる人がいるのだろうと不思議に思いました。とくに、ヨーロッパ史をしている人の、たとえばイギリス経済史の専門家であるはずの大塚久雄氏とか、「大塚史学」とよばれた大塚さんの一門の人たちのアジアの議論をみていると、どうしてこんな馬鹿なことを考えられるのだろうと、ほんとうに不思議に思いました。

 どう考えても、インド社会はマルクスのインド論でいうような社会ではない。先ほど田辺さんが言われたように、私は史的唯物論そのものに対してなにか根本的に異議を抱いているというわけではないのですが、少なくともマルクスのインド論は、箸にも棒にもかからないものだと最初から考えていました。

 日本社会ではマルクスのインド論があたかもインド社会の実態をあらわしているかのごとく、いろいろな人によって喧伝されているのをみて、やはりこれは絶対に批判しなくてはいけないと思ったのです。インドから帰ってきて、修論でワタン体制論はほぼ完成した感じで出したので、そのあと30歳代の10年間くらいは、もっぱらマルクスのインド=アジア論批判をしておりました。インド史研究をしばらく休んででも、していました。

 1979年に青木書店という出版社から、最初の本である『マルクスとアジア』という本を出しましたが、その後1982年に『共同体と近代』という本を同じく青木書店から出しました。この本の一つの主題は大塚久雄氏の『共同体の基礎理論』を批判することで、大塚久雄氏周辺の、特に末端の弟子たちにひじょうに憎まれましたが、そのことにむしろ快感を覚えました。(笑)大塚共同体理論はあれで粉砕された、破産したというのがだいたいの評価になっておりますので、自己満足しております。

 そのようなことをしながら、いっぽうでウェーバーについては、とくに深沢宏先生がウェーバーの『ヒンドゥー教と仏教』の翻訳を出されて、あれを読み、「ウェーバーというのはおもしろいな」とは思っていたのです。なにがおもしろいかというと、支離滅裂なところがおもしろい。(笑)マルクスは、理が立ちすぎてちっともおもしろくないけど、ウェーバーのインド論を読んでいると、どうしてこういう矛盾だらけなことをいえるのだろうと思うくらい、おもしろい。

 本筋のところでは、ウェーバーも「インドではなぜ資本主義的なエートスが生まれなかったのか」と問題を立てて、それをヒンドゥー教の経済倫理から説明しようとしていて、そこはちっともおもしろくありません。デュモンの本を読んでいるのと同じくらいつまらない。(笑)ただ、『ヒンドゥー教と仏教』のなかには、本筋とは無関係な余計なことがいっぱい書いてあるのです。ウェーバーはよく「体系なき大思想家」と言われますが、まさに体系のなさが彼の強みなのです。本筋はつまらなくても、枝葉の部分がたいへんおもしろい。ウェーバーの『ヒンドゥー教と仏教』の枝葉の余計な部分ばかり一所懸命読んでいて、そのなかに「インド的な発展に固有のもの」ということばを見つけました。ドイツ語でいうと、「Es ist der indischen Entwicklung eigentümlich, daß……」。「ダス(daß)」以下のことはインド的な発展にとって、固有のことであるというわけです。「ダス(daß)」以下には、ウェーバーが、これこそインド的社会発展の固有性だと考えたことが、半ページくらいにわたって書いてあります。「ダス(daß)」以下の部分がかなり長いのです。

 それを私は共感をもって読みました。その内容については、「マックス・ウェーバーの農業制度史構想とインド」(『思想』2014年11月号、84-86ページ)のなかで書いておきましたが、「インド的な発展に固有もの」という、ウェーバーがそういうことを考えたことに感動いたしました。マルクスはそんなことはまったく考えもしないで、十把一絡げに「アジアは専制が蔓延る国だ」くらいに書いているのです。まさに「体系なき大思想家」の強みだなと思って、それ以来ウェーバーのことはいずれきちん考えてみようと、この2、3年ウェーバー論を一所懸命にしていました。

 ウェーバーのいう「インド的な発展に固有のもの」とはなにかというと、国家と直接生産者のあいだに、固有の取り分――これをウェーバーはレンテRenteと呼んでいますが――をもつ階層が次から次へと重層化していくということです。場合によっては、五つも六つも中間的なレンテ収取者が重なっている。このレンテということばを、深沢さんはすべて「地代」と訳してしまっているので、これは少しまずいと私は思い、「レンテ」というドイツ語そのままで翻訳しておきました。

 レンテの一部分にたいする権利をもつ階層が、国家と農民のあいだにどんどん増えて、積み重なってゆく。それこそがインド的社会発展の固有性だとウェーバーは言っています。 ワタン体制や、水島(司)さんのミーラース体制もみなそうです。ワタンやミーラースとよばれるのはウェーバーのいう「レンテ」で、その収取者の階層がどんどん積み重なって、重層化する。それがインド的社会発展の固有のあり方だといってよいと思います。そうした点で、ウェーバーに共感をもっています。

●小川 ありがとうございます。こちらからの質問は最後になるのですが、少し視点を変えて、先生はずっと歴史学研究会に所属されて、おそらく先生は歴史学についてもすごく長い時間をかけて考えられてきたと思うのです。いま21世紀、この時代に歴史学を勉強する意義は、どういうものでしょうか。あわせてなのですが、いま南アジアを学ぶことの意義は、先生はどのようにお考えでしょうか。

●小谷 1969年2月に、インドから帰ってきたのですが、1969年は東京大学の入試ができなかった年で、もちろん授業もなにもない。そういうなかで、唯一の勉強と活動の場としてわれわれが結集したのが、歴史学研究会だったのです。その歴史学研究会の委員に私がはじめてなったのが1971年でした。

 歴史学研究会(歴研)というのは、1932年に設立されたいわば左翼的歴史学団体なのですが、戦争中は活動を停止していた。戦後に復活して、歴史学運動の中心をいつも担ってきた。歴研では、研究会活動と歴史学運動との両方をします。たとえば、家永教科書裁判ですね。家永三郎先生の日本史教科書に対する検定の問題で、長い訴訟がありましたが、あの訴訟の支援をする。そうした歴史学運動──「科学運動」と称しておりましたが、それと研究活動を両輪としていて、日本史、東洋史、西洋史もまったく区別なく入り混じって活動していました。そこで日本史の研究者の大先輩の人たちと知りあって、話をしたり教えてもらったりしたことが大きな意味をもったと思います。

 日本古代史の研究者として有名な石母田正という先生がいますが、石母田さんはインドに関心があって、「ライオット地代論」ということを当時考えていました。「ライオット」(ryot)というのは、インドの農民(「ライーヤット」raʻīyat)のことです。イギリスの経済学者にリチャード・ジョーンズという保守的といわれる経済学者がいます。しかし、マルクスはこのリチャード・ジョーンズを高く評価していました。リチャード・ジョーンズには歴史の弁証法をとらえる能力があるということで、保守的なのだけど、むしろリカード(デイヴィッド・リカード)よりもずっと高く評価していた。マルクスの『剰余価値学説史』という本の第24章が「リチャード・ジョーンズ」という章なのですが、石母田さんはマルクスの『剰余価値学説史』を通してリチャード・ジョーンズの「ライオット地代」(ryot rent)という概念を知って、それを日本古代史研究にも応用できるのではないかと考えていました。そんなことで、石母田さんとはよく議論しました(拙稿「石母田正の前近代アジア社会論」『歴史評論』2016年5月号所収、参照)。

 それから、日本中世史の永原慶二先生が当時の歴研委員長で、ワタン体制論のヒントを得たのは、永原先生を通してです。日本中世社会論の一つの大きな潮流として、「職(しき)の体系」という考え方があります。「職」というのは、まさにワタンやミーラースと同じようなものなのですが、たとえば荘園の「公文職(くもんしき)」や「名主職(みょうしゅしき)」、農民の「百姓職」とか、そういういろいろな「職」がたくさん生まれて、それが一つの体系をなす社会が日本中世社会だという考え方です。この「職の体系」論を知って、「ワタンはまさに職だ」と思って、ワタン体制論を考えるうえで大きなヒントになったのです。歴研で、そういう先生たちとたくさん出会えたこと、それから同じ年ごろの人たちとも同じような議論ができたこと、これは大きかったと思っています。

 それから、家永教科書裁判にも最初からかなり関わって、傍聴券を取るために東京地裁前に並んだこともありましたが、家永教科書裁判をとおして、歴史論のまじめな議論をしました。当時は文部省だったのですが、「歴史教科書記述は中立的ではなければいけない」というのが、つねに文部省のいうところだったのです。それに対してわれわれは、歴史というのは主体的認識であって、歴史認識に中立はありえないのだという議論をして、対抗しようとした。

 もちろんそれはそれで正しいと思うのですが、そのときにいちばん難しかったのは、歴史認識は主体的認識であるけれども、なおかつ客観的認識たりうる、そこをどう説明するのかということです。主体的認識であったらどれだって、だれのだって、かまわないではないかとはならない。主体的認識にもかかわらず、正しい主体的認識と間違った主体的認識があるのだということを、どう説明するかというのが、いちばんの鍵でした。それは歴史認識論のほんとうの要であると思うのです。そうした議論を20代の末から30代のはじめごろにしたことが、いまでもうまく説明はつかないのですが、そうしたことがその後大きな意味をもったかなと思います。

 それ以来今日まで、40年以上歴史学研究会と関わって、その活動に参加してきました。最近の歴史学研究会はアカデミックになって、科学運動体としての活力が少し落ちたような気もしないでもないですが、いまなお、若い歴史研究者を育てる機関として、大きな役割を果たしていると思います。

 歴史学には、そういう社会的な意味や要請もいろいろとあると思います。南アジア史にとりたてて意味があるかというと、そんなものはないと思いますが。なんでもいいのであります、歴史学であれば。たまたま私は、山崎利雄先生との間の悪い出会いでこんなことになってしまいましたが。(笑)なんでもかまわないので、どこを対象にしようとも、歴史学の本質の問題は同じだと思っています。とりたてて南アジア研究に固有の意味があるなんてことは、考えておりません。

●小川 ありがとうございます。まだ若干時間がありまして、あまり多くの方からうかがえないのですが、フロアから質問等がありましたら受けたいと思います。なにかございますか。

●参加者1 ありがとうございます。坂田(坂田貞二先生)です。小谷さんは、アヨーディヤー問題について、「牝牛」かなにかというタイトルで書いておられる。(『ラーム神話と牝牛 ヒンドゥー復古主義とイスラム』平凡社、1993年)たしか事件が起きて直に書かれましたよね。あれはぼくなんか目のない人間にとっては、目を開かせてくれる大きなチャンスになったのですが、そのあたりのことをどのように追っていらしたのか、かんたんに話していただけるとありがたいです。

●小谷 あのアヨーディヤーのバーブリー・マスジット事件(1992年)のまえから、ずっとインド・ナショナリズムにおける牝牛騒動は気になっていました。問題の発端はイスラム教の犠牲祭ですね。インドでは、犠牲祭で牛を犠牲にすることはあまりなく、多くの場合水牛だと思うのですが、それでもイスラム教徒が牛を犠牲にするといって、ヒンドゥー教徒が怒る。それが、牝牛暴動といわれるような騒動に発展する。最初の騒動は、1893年、北インド、いわゆる「連合州東部」の諸地区で起こりました。その後、北インドでは毎年犠牲祭になると、ヒンドゥー教徒とムスリムが血を血で洗うような争いを起こすようになってくる。ただ、南の方ではめったに起こらないのですが。

 この牝牛騒動はインド・ナショナリズムのいちばんの汚点だと思います。まだ独立の道なんかはるか彼方遠い1890年代に、もうヒンドゥーとムスリムが殺しあいをはじめてしまっている。それはいったいなんだろうかと考えていて、ずっと牝牛騒動の問題が気になっていました。

 独立後に、ジャンサン党がインド中央下院に牝牛保護法案を提出しました。結局、成立しませんでしたが、牝牛保護の問題が、ジャンサン党によって1950年代に本格的に政治的アジェンダにのせられた。これはいずれだんだん大きな問題になってくるだろうと思っていました。そのうち、ジャンサン党からBJP(インド人民党)に代わって、ますますその動きが強まってきた。それが、結局、アヨーディヤーの事件、ああいうところまでいってしまった。いわゆるコミュナル紛争といわれるものですが、あれをずっとインド現代政治、インド・ナショナリズムのいちばんの汚点としてみていたのです。アヨーディヤーでああいう暴発が起こってしまって、やはりこれは歴史的な経緯をいちおう書いておいたほうがいいのではないだろうかと思って、急遽乏しい史料をもとに『ラーム神話と牝牛』を書きました。現地調査もしていないので、批判の余地はたくさんあるだろうとは思います。

●小川 ありがとうございます。話題は尽きないのですが、もう時間がきてしまいました。小谷先生、きょうは貴重なお話をありがとうございました。これで第3回「先達に聞く」を終わります。どうもありがとうございました。(了)

 日本南アジア学会27回全国大会 ■■

先達に聞く 第2回

報告者 小西正捷先生(立教大学名誉教授)

聞き手 臼田雅之(東海大学名誉教授)

司会 粟屋利江(東京外国語大学)

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●粟屋利江(司会) テーマ別セッション「Ⅲ」として他のセッションと同列に並んでいますが、この「先達に聞く」というセッションは、昨年初めて日本南アジア学会の常務理事会の特別企画として始めたシリーズで、今年はその第2回にあたります。

 このシリーズは戦後に本格化した南アジア研究のさまざまな分野で研究をリードしてきた先達の方がたに、研究にどのように取り組んできたか、どのような課題があったのかを振りかえっていただき、それを次世代と、若い世代を含めて共有する場にして、自らの研究をさらに鋭く研ぎすませていくための機会になるようにという趣旨で始めたものです。

 今回、第2回にあたるセッションでは、最初は法政大学で、その後は立教大学で長く教鞭をとられて、インド考古学はもとより人類学そして歴史地理学的な分野、それから民俗造形と呼んでおられるものを含めて民俗学などの分野に及ぶ新しい領域を開拓なさってきた小西正捷先生にご登場いただき、研究に取り組まれてきたご苦労、成果、次世代の研究者に伝えたいことなどを語っていただきたいと思います。

 インタビュアーは、ベンガル地域をもっぱらご専門にして、文学そして歴史を凌駕するというか──「二股をかける」と言うと表現が……。(笑)境界をとっぱらったようなかたちで、やはり独自なスタンス、アプローチから研究を進めてこられた臼田雅之先生にインタビュアーをお願いしております。

 私の紹介はこれまでにして、お二人にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

●臼田雅之「二股膏薬」ならいいのですが、膏薬にもならず、へたすると毒薬になりかねない人ですが……。(笑)シリーズの趣旨は理解いたしましたが、あまりかたい話ばかりで終始するのは小西先生も望まれていないでしょうし私も荷が重いので、最初は少し意外なところから入っていきたいと思っています。

 いまご紹介がありましたように、小西先生の学問分野は多岐にわたっています。その多岐にわたっているものをいま全体として見わたしますと、それはいろいろな分野にわたっていますが、けっしてバラバラではなく、地下なのか天上なのかよくわかりませんが、なにか一つの中心があって、そこからすべてが光線のように出てきて、できあがってみると一つの親密な世界を作りされているような感じがいたします。

私は、小西先生のお仕事をまとめている、その根源のものはいったいなんなのだろうかというところに、たいへん興味がございます。今日はお話をうかがいながら、そこに迫れるようにできたらいいなと考えております。

 最初に、ちょうど一か月前の8月の末に、いきなりこのようなかたちで小西先生からお話をうかがうのは不安だったものですから、お許しをいただいて先生のお宅を訪ねました。じつは以前から先生の住んでいらっしゃるところがひじょうに気になっておりました。どんなところに住んでああいうお仕事をなさっているのだろうか、すごく気がかりだったのです。今度のことで初めてうかがうことができました。

 最初に香取神宮にご案内していただいて、そのあとお宅にうかがったわけですが、家のすぐ近くには利根川が流れているというところなのですね。川の土手から見ましたら、利根川がずっと広がっていて、それはまさにバングラデシュで見たガンガーの光景を彷彿させるような、またスケールもけっして劣らない雰囲気があったのです。

 こういうところで、利根川の水の音を背後に感じつつ、先生が座りながらお仕事をされている。これはたぶん──なんと言ったらいいか、おやりになっているお仕事にふさわしい環境のなかで仕事をされている。これはある意味でたいせつなことで、本質的なことではないかなと思いました。あの節は、どうもありがとうございました。

 お住まいについての私の感想についてなにかございましたら……。(笑)

 

小西正捷 住まいはともかく、たいへん過分のイントロダクションをいただきまして、ありがとうございます。最初に粟屋さんからお話をいただいたときに、先達はやめてくれと言いました。そんな歳じゃないし、そんな立場でもないし、そんなことも何もしてこなかった。齢の上では先輩ではあるかもしれませんが、このようなかたちで出てくるのはまことに僭越なことと思っておりましたので、さんざんお断りしたのですが、他のほんとうの先達の方がたが快くお引き受けにならなったようで、しかたなく私のところにまわってきてしまったということなんです。

 これまでいろいろな発表がこの学会期間中にもあり、他会場で進行中ですが、それに引きかえ私はなんの資料もそろえてきませんでした。資料として簡単に略歴のようなものを書いてみましたが、こうして見るとかえって恥ずかしい感じですね。こんなことはおおっぴらにみなさんに見ていただくようなものではないと、あらためて感じました。それでも何らかの参考になるならば、ということです。

 それから資料にも挙げた最近の私の本を、今日は持ってきていただいたようです。重たいものをありがとうございました。シムラーで編集されて、昨年デリーで出版されたものです。私にしては珍しくまじめに書きあげた、南アジアの紙漉きの歴史についての単著です。「Hāth-Kāghaz」という本題がリストから抜けてしまいました。Hāth-Kāghaz──History of Handmade Paper in South Asia(Delhi: Aryan Books International,2013)です。

 最近のもので、やや大きなものとしてはこのようなものもあるのですが、さかのぼって見ていただくとわかるように、「この人はいったいなにが専門なんだろう」というくらいありとあらゆることに手を出して、しかもどれもまとまっていないという、たいへん恥ずかしいかぎりのあり方が如実になってしまっています。

 なんでもかんでも「おもしろい、おもしろい」というものを見つけるのが好きなんですね。そしてなにかおもしろいと思いだすとそこに目がいくのですが、別のところにまたすぐ目がいってしまって、どれ一つとして完璧にまとめることをしてこなかった。忸怩たるものがあります。

 とくに臼田さんのご専門であるベンガル文化に関してのさまざまなことについては、私がカルカッタ大学に3年近く留学をしていたこともあって、いろいろなところに関心がありました。それを紹介するかたちで、たとえば『ベンガル歴史風土記』(法政大学出版局、1986年)に、それまで書き散らしたものを集めて出していただいたことがあります。臼田さんは憶えていらっしゃらないと思いますが、「ベンガル文化のおいしいところはみんな食べられてしまった」と、たいへん厳しいご指摘をいただいたのです。「けれども、唾をつけただけで、なんにもちゃんとやっていない」──というようなことまではおっしゃらなかったんですが……。(笑)

 

●臼田 私どもがベンガルのことをやりたいと思ったときに、たしかにおいしいところはすべてもう小西先生が先鞭をつけられている。中里成章さんと「われわれがおもしろいと感じたところをやるけど、みんな小西さんにやられているよね」という話をよくしました。しかし、そのあと「だけど、すべて完成していないよね」というようなことは、けっして申しませんでした。(笑)

 それについては「完成っていったいなんだろう」ということを思いますし、最初に道を行かれる方には「ここにこういうおもしろいものがあるよ」ということを、あとから行く者に知らせるという重要な役割があると思います。ベンガルの場合には、そのおもしろいものが探しだすといろいろ、いくらでもあったということではないかと思っております。先ほども申しあげたように、その一つひとつがけっしてバラバラではなく、有機的に結びついて『ベンガル歴史風土記』というかたちで自然に一つの本にまとまるところに、小西先生の仕事の本質があるのではないかと私は考えています。

 もう一つ申しあげたいのは、いろいろなことをして次から次に興味・関心が移ると申されましたが、そのいろいろなことというのは、振りかえってみると、インド研究あるいはインド史研究でそれまでだれも注目しなかった、取りあげなかった話題をすべて取りあげられていった――ここに小西先生のお仕事の大きな特色があると思います。だれもしなかったところを開拓していく、そこに小西先生の学問の一つの大きな特徴があるのだと思います。なぜそうなったのかについてと、すべてが一つに結ばれるその根源について、インタビューで先生に語っていただくなかで明らかにできたらと考えています。

 話としては、やはり先生の経歴を追ったかたちでお話しいただくのが、いちばんわかりやすいのではないかと思います。先生がインドに関心をもたれるにいたるまで、たぶんそれには子ども時代からのいろいろなことが関わっているのだろうと思います。ご家族をはじめ、お生まれになった場所など、そこいらへんからお話しいただくのが、かえって遠いようで本質に迫りうるのではないかと思います。そのあたりから始めていただけないでしょうか。よろしくお願いします

 

●小西 ありがとうございました。だんだん追い詰められてきた感じですが……。(笑)

 たしかに子どものころからの話のほうが話しやすいし、漠然と聞いていていただけるのではないかという気がしますので、どうぞお気楽に聞いてください。

 先達というほどのものではないのですが、インドへの関心をもちだしたのは子どものときからですので、その点からすると、インド学ないしは南アジア研究で私より先輩の方がたよりも長い期間にわたってインドを意識してきたことは、たしかだと思います。ほんとうに子どものときから、どういうわけかインドが気になってしようがなかった。

「なぜならば」というのがよくわからないのです。家は邦楽の家で、姉はいまでも琴の師匠をしておりますし、父親は尺八を吹いておりました。そのような環境のなかで私自身は、三曲はもとより、宮内庁楽部に出かけていって雅楽を聴くという、変な少年でした。そして舞楽とか雅楽のさまざまな音、または衣装などを見るにつけ、そのルーツがインド世界、南アジア、中央アジアにあることに気づいて、それについての関心をぐっと深めていったわけです。

 そこには多分、「なにを考えてもいい」というひじょうにフリーな敗戦後の雰囲気が背景にあったと思います。それまでは、私は兄たちがずらっといる末っ子でしたから、いろいろな情報が上からおりてくる。私は歳にしてはずいぶん古いことを叩き込まれているというか、知っているところがあります。同い年の同級生たちよりも、戦時中のこととか戦後のいろいろなことをずっと明確に、強烈に憶えている。そういう点があると思うのです。

 実際に「少国民」として教育を受け、国民学校の1年生として、乃木坂下の乃木国民学校に入ってすぐ、もう4月には入学式もそこそこに学童疎開で家を離れさせられたのです。まだ六つかそこらで家を離れ、家族と別れることがどんなにつらい、悲しいことか、またこんなにもお腹がすくことかということは、いまだに忘れられないのです。しかし、疎開先が多摩の是政ですから、今の東京外国語大学のすぐそばです。そんなところに疎開したって、「そんな近くでいいの」という感じですが、幸か不幸か東京大空襲の火の海を遠くから見てふるえあがって、みんなで抱きあって泣いたことを憶えております。

 私が住んでいた家は赤坂のど真ん中にありましたが、5月の空襲で焼け落ちてしまいました。集団疎開も学校も解散になって、私は小学校1年生の1年間、ほとんど学校に行っていないのです。そのあとも、家が焼けてしまったので、親父は鉱山の仕事をしておりましたから、つてをたよってあちこちの鉱山を転々として面倒をみていただきました。そのあいだも学校には、行けばいじめられますから行きませんでした。1年生、2年生の2年間は、小学校に行っていないようなものなんですね。

 そのなかで、もう脅えなくてもいいはずなのに、戦時中に、とくに私の世代よりも、親や私よりずいぶん歳が離れている兄に対して投げかけられかねなかった「非国民」という言葉、これがほんとうにトラウマのようにいまだに残ってしまっているのです。ちょうど今日終わった連続テレビ・ドラマの『花子とアン』に出てくる一人が、村の近所の人たちから「非国民」という言葉を浴びせられたとたんに、私は思わず家内がびっくりして飛びあがるような声で「ばかもん!」と叫んだんです。私は寝ているときにもときどきうなされて、それと同じような叫び声をあげるんだと家内に言われて、これはまさにトラウマだなと思いました。

「国」というものに対するとてつもない嫌悪というのでしょうか、不信感というのでしょうか、それがすごくあった。いまからすれば、そこまで考えてそうなっているのかどうかはわかりませんが、いまだに「国」という言葉を使いたくないのです。

 実態としてインドの場合をとってみますと、「国語」というものはありません。ベンガルに住んでいれば、ベンガル語が使われヒンディー語が使われ、さまざまな言語が使われますが、いわゆる「母語」はあるけれどもそれは「母()語」ではない。ベンガル語を話す人たちにとってヒンディーは、「外()語」ではないのです。「外語」というのはあまりなじみがないことばかもしれませんが、そこに「国」を入れてはいけませんね。そういうものではない。まあ「外語大」というんですから、外語でいいんだろうと思いますが……。(笑)

 いずれにせよ、「国」というものについて口にするのも憚られるようなことが、インド研究の場合でもよく出てくる。そもそも「インド」というのはなにを意味しているのか。国なのか地域なのか、なんなのか、どうも困ってしまって……。「南アジア」というのは便利な言葉だし、正鵠を得ている表現だろうとは思うのですが。

 ついでにもう一つ言えば、よく他の方がたのエッセイや論文に出てくる「わが国では」という言い方がありますね。これも私は使えないのです。これまで使ったことがないし、どうも抵抗があって、「わが国」という言葉が出てこない。

 ちょっとひねくれていますから、いろいろな言葉を使わない、考え方をしないということがあるんです。「国」というのもそうですが、もう一つ「調査」というものについての私のこだわりもあります。のちに文化人類学を勉強しつつ、農村などに入れていただいていろいろな方がたから教えていただくわけですが、それを「調査」とは言ってしまえない。それは、そこに留まっていろいろ教えていただく「留学」だと私は考えているのです。

 それも遡って言えば、ちょうど大学に入ったころ、いずれインドに行きたいと一所懸命インドについての勉強を続けていたわけですが、入った大学がたいへんアメリカナイズされた大学で、もうまわりの人たちはアメリカ一辺倒。「国際」という名前がついた大学ですが、ちっとも国際でもなんでもない。たいへんアメリカかぶれの大学で、アメリカ式の英語でアメリカ式の教育をするというところだったのです。

 皮肉なことに、私の成績で、(ランクがAからEまでありますからDでも落第ではなかったのですが)、最低の「可」、Dをくらった科目が2科目だけあります。それがなんと、英語と文化人類学です。(笑)この二つがまったく認めてもらえていなかったということですね。あえて勲章のような気がしますけれども。(笑)

 そして「インドに行って勉強したい」と先生に相談に行きますと、「インドは調査しに行くところであって、留学するところではない。まずアメリカに留学して、そこの奨学金をもらってそのお金でインドを調査してこい」と言われて、私はカーッとなったわけです。「なにをおっしゃるんだろう」ということで、「そうではないでしょう。教えていただく方がたがインドの方がたであれば、そこに私は留まって学ぶということなのだ」と。

 しかし、それは友だちにも理解されませんでした。友人たちはみんなアメリカに留学することしか考えていませんでした。事実、当時日本では外貨制限があって、ようやく少しそれがゆるくなっても、一人あたり500ドル以上を持ちだすことができませんでした。1ドルが360円の時代です。みなさん方からは遠い世界だと思いますが、そういう時代の状況でしたから、外国で勉強するには、そこの奨学金をいただくしかないのです。だからみんなアメリカの大学からの奨学金をもらおうと思って、一所懸命に活動していたわけです。

 そういう状況のなかで、1951年にインド政府招聘による留学生制度が発足しました。この制度でもって、荒松雄、中根千枝、小泉文夫といった方がたがインドに留学していたのです。さらに1956年には日印文化協定が締結されて、日印の交流が少しずつ盛んになりだしました。インドというのはほんとうに大国なんですね。いまなら「インドは大国だ」と言ってもそう驚く若者はいませんが、もうちょっと上の世代の人たちにとっては、インドというのは貧困の国、貧しい、汚い国、遅れた国というイメージしかない。そこで私が学生たちに、「インドは従来豊かな大国なんだ」などと言うと、みんなびっくりするわけです。

 なぜかというと、イモのほかにはまだ食べるものもろくになかった戦後、とくに都心に住んでいて、親類が東京以外にいなかったわが家のようなところでは、しょっちゅうお腹がすいていた。おそらくインドの貧しい村でも私たちほどお腹がすいていなかったんじゃないかという気がするほどの、ひどい状態だったと思うんです。そのころ「コロンボ・プラン」というものがあって、スリランカやアフリカの学生たちをインドによんで留学させる制度があった。それに近いかたちでの留学生制度が、貧しい日本の学生にも向けられるようになって、そのおかげで私はインドに留学させていただくことができるようになったわけです。これを大国と言わずになんと言うか。ほんとうにふところの広い国だなと思います。

 ただ、受け入れてくれたインドのふつうの人たちは、私が勉強しにきた対象が考古学や歴史、美術史であることを聞いて、みんなびっくりするわけです。「なぜ医学や工学ではないの」、「みんなエンジニアリングの資格をとりにここに来るんだよ」、「医学を勉強しに来るんだよ」と。資格を取るのが大事だから、アフリカやスリランカから人が来るんだ、というわけですが、私はちょっと違うんじゃないかなという気がするわけです。それでも、「日本にはインドのように古い歴史や文化がないからなあ」などと納得されても困るんです。

 一方、逆に日本でも、「インドに行っていろいろなことを勉強してきた」と言っても、「それがなんの役にたつの」と言われる。これまで日本におけるインド研究と言えば、仏教学であり、サンスクリット古典であり、文学・思想であり、そういった高度なアカデミックな分野であったのに対して、私はもっぱら、ごくふつうの人たちの民俗、風習とか、さまざまな草の根レベルの文化に関心があって、これもあまり理解をされていなかった。そして今では、むしろインドの政治・経済・IT産業などにやや過分な関心が向いています。

 インドに深い、古い、すばらしい民衆レベルの文化ないしは歴史の古い考古学的な文化遺産があることが、日本では理解されていない側面もありました。そして、とくにこれまでインド研究を担ってきた仏教界ないしは「印哲・梵文」の研究者のうちには、それに対する無理解がありました。よく思い出しますが、ある仏教系の方々の会合で、「日本はもっとどんどんインドへ行って発掘をしないといけない。なにしろインドでは考古学が遅れているからだ」という発言があって、私は思わず「日本ではまだ文久年間だったころ(1861年)にインド中央政府の考古調査局がすでに発足していることをご存じないのか。あまりにも傲慢じゃないか、取り消しなさい!」と言って、けんかして帰ってきたことがあります。どうもそれ以来、仏教界ともうまくいっておりません。(笑)

 インドで「日本人というと仏教だろう」、あるいは日本でも「実家はお寺さんですか」などと聞かれるのも、ちょっとカツンとくるところです。私は仏教徒ではありませんから。かといって、それほど熱心なキリスト教徒でもありませんが。とにかく、思想上のことから言えば、私にとって、ヒンドゥー教というのはたいへん魅力のある宗教でしたね。しかもそれも経典的(Śāstric シャーストリック)なものではなくて、ベンガル語で言うと「ロウキコ」(民衆の)というのでしょうか、ごくふつうの人たちの、つまり上流のボッドロロク(エリート)ではない、チョトロクと呼ばれる名もなき人々、そういう人たちの文化にたいへん大きな関心をもつに至ったわけです。

 

●臼田 ちょっと質問させていただいてよろしいでしょうか。これまでのところで、みなさん方もお聞きになられて、意外に思われる方も多いのではないかと思います。最初に「私の家は邦楽の家で……」と伺ったとき、私は「ほうがく」というのはてっきり「法律学」だと思ってしまいました。(笑)ところがそうではなくて、三味線とかお琴の話だったのでびっくりしました。

 私たちの小西先生に対するイメージは、英語がすばらしくおできになって、しかも国際基督教大学を出られているということで、そういうイメージと邦楽というのがいったいどこで結びつくのだろうと、ひじょうにとまどいました。しかしうかがっていますと、そういったさまざまなベクトルの違うものが先生のなかでせめぎあっている。そのなかから先生のクリエイティヴィティみたいなものが出てくることが、新鮮に感じられます。

 疎開と言えば、私も疎開をしています。私は昭和19年の生まれですので戦争の末期ですが、父親が小学校の教員をしておりましたので、その教員の家族としてくっついて、最初は熱海に、熱海が危ないので次に岩手県の水沢にというように、もう記憶にはさすがにありませんが、疎開をしているのです。

 私はなんの記憶もありませんが、それを引率して行った教員として、たぶんいろいろな問題があったのかなと思います。母親もいっしょについてきましたので、どうやって子どもたちの食糧を確保するか、たいへん苦労したという話を子どものころから聞かされていました。同じ疎開ということでも、いろいろな意味あいがあって、人びとが置かれた立場で違ってくるなと感じながらうかがっておりました。

 質問というのは、最後のところで申されましたが、ヒンドゥー教に関心をもたれたことについてです。そして、国際基督教大学ではあまりいい思い出がないとおっしゃっているにもかかわらず、クリスチャンであるとおっしゃっていることについてもおうかがいしたいと思います。

 クリスチャンであることとヒンドゥー教に興味をもつということが、私のなかでは──わからないわけではないんです。私も学生時代にキリスト教会に1年あまり通っていたこともあります。ただし、いまになってみますと、私はどう見ても完全にアニミストだと思っています。異質のものに惹かれていく面があるのはわかるのですが、まったく違うものでありながらその二つが一人の人間のなかで共存している。たぶん私の場合とは違って、小西先生の場合にはもっと複雑な深い事情がおありに違いないと思います。前々からそのことをうかがってみたかったのです。少しお話しいただけないでしょうか。

 

●小西 たいへん本質的な、大きな問題になってしまいましたね。ある意味での学問的ではない話ばかりになってしまってたいへん恐縮ですが、とくにこの信仰の問題、宗教の問題というのは、多感な若いころにはほうっておけない大きな問題だったわけです。ましてインドというとんでもない、それまでまったく考えてもみなかったような世界に飛び込んだのは、弱冠22歳のころです。ほんとうに若いですね。まだ頭は空っぽで、海綿のようにフワフワですから、なんでも取り入れられるようなときです。

 先ほど言った学童疎開では是政のお寺に預けられていたので、朝晩に般若心経を唱えていました。それと教育勅語です。教育勅語と般若心経をずっと唱えさせられていたところで、いきなりでもないですが、キリスト教の世界に移った。大学以前もミッション・スクールだったのですが、とくにそれが非寛容なプロテスタンティズムでした。キリスト教における「ラー・イラーハ イッラッラー(アッラー以外に神はなし)」みたいなものです。「Godのほかに神はなし」。しかもその神を表す場合、Gは大文字で書くわけで、「The God」なんです。でも私にとっては、小文字で複数の「gods」なんです。「それではぜったいにだめだ」と言われるのですが、神々の世界に関心があったわけですから、たいへん悩んだわけです。「そういう考え方は捨てろ、捨てろ」と、日常的に友人たちや先生方から責めたてられたこともありました。

 私はそのように押しつけられると、すぐ反発したくなる悪い癖がありました。倫理学の先生で宗教の先生ではなかったのですが、『ウパニシャッド』というものがあることを教えてくれた方がいました。そこでは、よく引かれる卑近なたとえですが、「富士山に登るにはいろいろな登山口がある。どこから登っても頂点は一つでしょう」ということで、「互いの立場を認めあい、そしてその神に出あうべく努力しなさい」と教えられました。これがある意味でヒンドゥー教の究極的な教えであるわけですが、これにたいへん惹かれたのです。

 そしてその先生が按手礼を受けた牧師さんであることもあって、その先生から洗礼は受けたのですが、キリスト教の教会に属してそのコミュニティの一員となることはどうもできないまま、現在になってしまっております。その点はいいことだとはちっとも思わないのですが、どうも押しつけられることが嫌いな人間なものですから。

 先ほど英語が上手だと言っていただいたのですが、なぜ私が英語で「D」をくらったかというと、とくに叱られたのは「発音がだめだ」と言うんですね。それまで私は、それこそJOAK、ラジオ放送でルイス・ブッシュ(Lewis William Bush)さんというイギリスの先生が「Current topics」というものをずっと流しておられていて、それで耳慣れていたので、ブリティッシュ・アクセントの英語、クイーンズ・イングリッシュに慣れ親しんでいたのです。それが急に「Californian American」になっちゃったわけですね。そのCalifornian American accentというものはどうしても──できますよ、簡単にできるんですけれども、やれと言われるとやらない、わざとやらないというようなことで、とうとう「立ってなさい!」と。(笑)大学生を部屋に立たせるか、とかいう英語の授業だったのです。(笑)

 文化人類学のことも言っておこうかな。大学では、日本人の先生方よりもよっぽど高給でアメリカから先生方をよんできていて、その格差もすごく不愉快でした。そのなかで、旦那が経済学者で経済学の授業をもっていたのはそれでけっこうなんですが、その奥さんが心理人類学──とくにあのころはCulture and Personality、「文化とパーソナリティ論」というのがはやっていたころで、それをアメリカの大学でちょっとかじっただけで、それを講義なさっていた。それでおもしろくないからいい加減なレポートしか出さなかったので、人類学でDをくらってしまったのです。まあ、そんなことはどうでもいいんですが。どこか話をべつのところにもっていかないといけないですね。すみません。

 

●臼田 インドの時代のお話は……。

 

●小西 インドに行って勉強したいと考えていたとき、「アメリカに行って奨学金を取ってこい」と言ったのとは違う先生で、この方もニューヨーク大学からよばれて美術史を教えていたJ.エドワード・キダー Jr.という方がおられました。この方は京都大学で考古学の学位をとられた縄文土器の研究者で、ニューヨーク大学の先生をしていた方です。彼がニューヨーク大学にいた時代に、インドからすぐれた美術史家が来ていた。それがカルカッタ大学のNihar Ranjan Ray、有名な美術史家で、のちに国会議員、Member of Parliamentもなさった方です。彼がそのカルカッタ大学にいるから紹介状を書いてあげるということで、カルカッタへ行ってこの先生の下で勉強しようという気になったわけです。

 実際にたいへんかわいがってくださって、立派な先生ですし、ありがたかったのですが、やはり名品ばかりの美術史を扱う。しかもそれを読み解くにはたいへん難しいサンスクリット語のテキストを読まないといけない。儀軌ですね。それがとてもやりきれなくて、半分ノイローゼになりかけていました。

 それでなくても、英語の発音のこととも関係するのですが、インドに行って授業を受けても、なにをおっしゃっているのかぜんぜんわからない。けっこう聞き取りやらなにやらには自信があったのですが、なにをおっしゃっているのかわからないので、講義のあとでノートを持って行って、「先生、私は留学生なんですが、英語でやってくださいませんか」と言ったら怒られました。「おれは英語でしゃべっていたんだ!」と。(笑)しかしそのあとは「ウェル・ラーユー・ゴーイング」(Where are you going?)というような巻き舌の英語にもすっかり慣れて、そのほうがアメリカ語やらイギリス語よりもわかりやすくなってしまったほどです。

 とにかく、なんとかこの英語(イングリック)とサンスクリット語から逃げ出さないといけないと逡巡していたときに、ちょうどその年から新しく考古学科、Department of Archeologyが始まったわけです。「考古学ならサンスクリット語を読まなくてもいいだろう」と思ったのがまちがいで、やっぱりだめでした。やっぱり読まなきゃいけないんです。でも、ずっと楽でしたね。名品ばかりを見るのではなく、ごくふつうの人たちがふつうに使っていた日常の雑器からなにが見えてくるか。そこではモノの良し悪しというよりも、そのモノのもつ意味や技術をどう探るかを教えていただいたのだと思うんです。

 それからも一貫して、私はなにかを学ぶためには「モノ」にこだわる。モノだと実際にさわれるし、写真に撮れるし、測れる。そういう具体的なモノを通じて、その背後にある考え方、思想、大きく言えばそういったものに迫るたしかな手がかりが得られるのではないかという気がするのです。それがいきなり「象徴」とか「構造」とかいうところにとんでしまうと、わけがわからない話になっていく。私は頭が悪いものですから、そういう欧米流の抽象的な議論になかなかついていけない。むしろ土器のかけら、または布の切れ端から、どうモノを読み解いていくか、話を見つけていくかということをやろう、やることが必要だということになったわけです。

 幸いに、新しくできた考古学科の主任教授―Sudhir Ranjan Dasという方ですが、彼はFolkloristでもあったのですね。ベンガルの村の民俗にたいへん詳しい彼の薫陶・指導で、私はベンガルの村の女性たちが米の粉を溶いて土間に絵を描くアルポナという儀礼的な絵のおもしろさというものを学びました。

 米の粉で地面に描いた絵というのは、描いて数時間もすれば消えてしまうものです。美術史の名品のように「何百年もたったからいいんだ、立派なんだ」というものではぜんぜんないのです。ところがそこに脈打っている思想、祈り、またはそこに捧げられている呪詞「チョラー」、まじないごとみたいなもの、それから「ブロト」という儀礼にかかわる歌または願、「コタ(カター)」、物語、そういったものに入っていく入り口として、このすぐに消えてしまうような床に描いた絵はとても大事なものだということを教えられました。ずいぶんあとになってからですが、2001年に日本語で『インド・大地の民俗画』(未来社、2001年)というところでまとめをしてみたりもしているわけです。

 しかしこれは美術史でもない、人類学でもあるのかないのかよくわからない、なんにしろ何学にも属さないような、ほんとうにマージナルなところから入っていった研究の方法なんだろうと思います。このようなアルポナまたはチョラ、コタ、請願儀礼、ナーチのような舞踊、その先にあるジャットラのような村の演劇、村芝居、そういったようなところから本質的なものが見えないだろうかということをずっと気にしてきました。関心がどんどん拡がっていくことは反省しています。とどめようもないほどの、なにか散漫なことをやってきたということには忸怩たるものがあるのですが……。

 

●臼田 いまお話をうかがって一つ感じたことは、若いころに「自分はこれをやる」と決めて──たとえば考古学をやると決めて、考古学にはこれが必要だからこれをすべて究めていくというかたちで先生は進んでいかれない。「サンスクリット語ができなかったから」とはおっしゃっていますが、たぶんそういうことではないだろうと思うんです。

 つまり、自分が求めているものが既成の枠組みではおさまらないという直感みたいなものがおありになったのだろうと思うんです。そういうなかで、自分がたとえば研究者として、学者として生きていかなければならないという事態に直面したときに、いまはこのように淡々とお話しになっていらっしゃいますが、先生のなかでも葛藤というか、不安というのか、そういうのがおありになったんだろうと感じます。

 みなさん方はあまりご経験がないでしょうが、私は若いころ、自分がぜんぜん学者に向いていないとつくづく感じていました。いろいろなことに気が散ってしまう人間だったので、そういう人間がなにかのきっかけで研究者として生きなきゃならないと思ったときに──なぜ研究者をやめられないのかも不思議で、やめればいいのに、それもやめられないでいるという、そのあたりのところが先生と共有している点なのかなと、おこがましいのですが思いました。

 私が最初にお会いしたとき先生は、1960年代のなかばだったと思いますが、たぶん留学から帰られてすぐだったと思います。シャンティニケトン・バッグという、タゴールの建てた大学があるシャンティニケトン・スタイルのショルダーバッグがあるんです。これは、グッチとかそういうブランドものとはまったく逆の代物で、むしろベンガルの村の「民芸品」に近いような。それを肩にかけて、颯爽と歩いておられたのです。ひじょうに「かっこいい」。「かっこいいけど、少しきどっているんじゃないの」というのが、後輩から見ての正直な感想だったのです。

 でも、先生がそういった出で立ちで「自分はこうである」とご自分の姿勢を前面に押し出しておられる。そうしないと、自分がやろうとしていることを保つことができないほどの緊張感のなかで暮らしておられるのではないかということを、失礼ながら感じたわけです。

 アルポナの話に移りたいと思います。アルポナという儀礼画をご覧になって、そこからアルポナに関わりのあるさまざまな分野のことを一つひとつていねいに取りあげて、モノグラフにされていく。それが集まって『ベンガル歴史風土記』みたいなものもできるし、ほかの本もできあがっていくことは先ほども申しあげました。そういう「文化複合」みたいなものに気づかれた。とくに、「思想とかそういう高尚なことがだめで、モノを扱われている」とおっしゃいました。モノというのは目の前にたしかな存在としてあるわけですが、小西先生がすぐれているのは、そのモノを見極める力。そこがたぶんたいへんにすぐれていて、着眼点、そのモノのどこに目につけたらいいのかという点、それがすばらしいセンスをお持ちなのだと思います。

 ただそれにとどまらずに、モノを見た場合に、そのモノの奥にあるコトがなんであるか──つまりそれが思想とか宗教などにあたると思いますが――モノだけにとどまらずにコトの世界にまで拡がっていくところに、小西先生の学問の一つの魅力があるのではないでしょうか。つまり、モノの文化人類学、あるいは小西先生は最終的には文化史家で、文化史をなさっておられるのだと私は思うのですが、「モノ・コト」あるいは「モノ・オト(音)」というような、目には見えないけれども気配としてたしかにそこにある「南アジアにおけるモノ・オトの文化史」みたいなものが、先生のされてきたものなのではないかなと感じております。

 もう一つおうかがいしたいのは、Nihar Ranjan Rayという美術史家のことが話題に出ました。この方はベンガル文化史をしていると大きな存在で、通史ではありませんが、古代インド史家バシャムの書いたThe Wonder That was Indiaに匹敵するような本を書いておられます。それだけではなくタゴールの著作をすべて読んで、それについてベンガル語、英語で、繊細な感じのタッチのきれいな本を書かれているような方です。私も一度だけお目にかかりましたが、いかにもそう思わせるような雰囲気を漂わせた方でした。

 そのほかにもN.K Boseという地理学の泰斗がいます。この方も地理学者にとどまらない多面的な方ですし、それからD.C. Sircarみたいな碑文学の泰斗にも先生は教えを受けられたようなので、そのあたりのこともお話しいただきながら、次に進んでいただけたらと思います。

 

●小西 ありがとうございます。今回のインタビュアーが臼田さんだと聞いて、「ああ、それならよかった」という気になったのは、臼田さんのもっているその詩人のような魂ですね。ドライな学問ではなくて、ほんとうに詩の心を理解して、それを追求していらっしゃる。和歌も実際にいくつもお詠みになっていらっしゃるわけですが、書かれたものを見ても、そこに馥郁と漂う詩の心……。それで「臼田さんって実にすばらしい方だな」と思って、いろいろ読ませていただいてきたわけです。

 それはベンガル人のセンチメンタリズムにも、ちょっと通じるところがあるものかもしれないという気がいたします。いま話に出たNihar Ranjan RayにはBangalīr Itihās、『ベンガル史』(History of the Bengali People)という大著があるのですが、これは英語になっていないんですかね。訳されていますか。

 

●臼田 訳されました。

 

●小西 そうですか。ベンガル人は「ベンガル語で読まなければ、そのよさはわからない」

と言っておりますし、「涙なくしては読めない」というようなコメントもあるような本です。たいへんヒューマンな方でした。

 一方では、こんなことばらしちゃっていいのかな──「日本から来ていた女子留学生をなんとか飯に誘いたいんだけれども、かっこ悪いから小西ついてこい」という……「これはどういうことなのかな」というようなこともありましたが、とにかくたいへんな学者であったわけです。(笑)

 カルカッタ大学の定年退職後は、いま会場を回っている本を出してくださったIndian Institute of Advanced Study, Shimlaの初代の理事長を務められました。私も定年後、ここで1年間お世話になりました。かつてイギリス総督邸であった1840年の建物のBallroomが現在は図書館になっていて、11万冊の本が入っております。その正面の入り口にニハルバーブーの写真がデーンと飾ってあって、慈しまれているのか睨まれているのか、どうも複雑な気持ちでした。

 たいへんお世話になったNirmal Kumar Boseという方は、当時は中央政府の人類学局長でありました。とくに地理・人類学関係のセンサスをずいぶんたくさんお出しになって、地理学や人類学の分野でも多大な業績をあげられた方ですが、建築史の専門でもあるんです。とくにオリッサの建築にはひじょうに関心をもたれていて、オリッサの建築と言えば彼の名前があがるくらい多くの本を書いておられます。ニルマルバーブーにもたいへんかわいがられて、よくお話をうかがったりして、多くを彼から受けることができました。

 残念ながら、D. C. Sircarのほうは偉すぎてしまって、私がついていけないような分野──Paleography、金石碑文学・古文書学というようなものだったものですから、せっかくインドの国宝級の文献学者についていながら、そこから大して勉強することができなかったのは残念です。ただし、その先生がいらしたカルカッタ大学に当時いて、雰囲気に浸るだけでもできたというのは、たいへん幸せだったと思っております。

 しかし、その後だんだんカルカッタ大学の価値というか評判が落ちてきて、たいしたことはなくなってきました。時代によって次々といろいろな人が出てくれば、当然それもそういうことだろうと思うし、それはそれでいいことなのだろうという気がします。

 時代が変わっていけばというか次世代になればいい仕事が出てくるというようなことであれば、私も多少のその先鞭をつけたかもしれないけれども、それを深めて追究された若い──若いといっても現在では第一線の中堅でそれほど若くもないのですが、日本の若い学者たちが次々と出てこられたことはとてもうれしいですね。これで私はもうお任せできるというか、死んでもいいというところになるかもしれないと思うんです。

 たとえば先ほど言いましたブロト、誓願儀礼の研究は外川昌彦さんがされています。放浪詩人のバウルについては村瀬智さん、それから絵巻物ポトの研究をずっと続けてこられた金基淑さん、バングラデシュのいろいろなことを研究なさった高田峰夫さんなど、次々とそれぞれの分野で、私が本来もうちょっとやらなければいけなかったようなことを深めてくださっている。それから田辺明生さんの最近の活躍も著しいですね。若い世代の方がたに多くを託すことができるのはほんとうにうれしいことで、助かっております。

 

●臼田 いまNirmal Kumar Bose先生のことが出てきました。このNirmal Kumar Bose先生にはもう一つの面があります。マハトマ・ガーンディーが晩年にバングラデシュのノアカリに行ってヒンドゥ・ムスリムの紛争を調停した旅のとき、いっしょにsecretaryとしてついて行った方なんです。そのときガーンディーは姪の女性と裸で同衾するという実験を行なったりしています。そのことについて回想記に書かれており、ガーンディーと深い関係がありました。

 そこでおうかがいしたいのですが、今日のお話にはまだでてきていませんが、ガーンディーやタゴール、いわば近代インドを代表する方がたに対して、先生は敬意をもたれていると思いますが、しかし同時に批判的に見ている面もおありだろうと思うのです。私はいま、1月にお亡くなりになられた奈良毅先生の遺品の整理をさせていただいています。そのなかで、大倉精神文化研究所から出していたパンフレットに小西先生が若いころ書かれた「タゴールについて」という文章を見つけてしまいました。そこで先生はタゴールに対して共感から出発して違和感も表明されていると思いますが、タゴールに対しても「ん?」という気持ちになられた、その転換がいったいどのようにして起こったのか。また、先生はガーンディーに対していったいどのように思っておられるのか、それをおうかがいしたいと思います。

 

●小西 たいへんなビッグ・ネームが二つ出てきました。まずタゴールです。インドに対する私の関心、あこがれをかきたてたものの一つに、タゴールがあったことはたしかです。私がインドに行く前の高校から大学にかけてのころですが、それはロマン・ロランを経てのタゴール理解でした。もしくはインドに対する関心も、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』などから「インドってすごいところだな」、「おもしろそうだな」ということがあって、「いずれインドに行って勉強したい」という思いがあったわけです。

 とくに、たまたま私がインドに向かう1961年がタゴールの生誕100年祭が行なわれる年で、そのために1、2年前から、日本でも大倉精神文化研究所などが中心となって「タゴール研究会」という勉強会が開かれていたのです。そこでみんなで集まって、じっくりと詳しく『ギーターンジャリ』を読んだりしていました。ノーベル文学賞をとった作品ですね。この『ギーターンジャリ』などを読んで、タゴール熱がこの研究会を中心にたいへんに燃えあがった、そういう時期であったわけです。

 そのような只中で、私はカルカッタへ留学をしました。私がいた寮のすぐ横のモイダン広場では毎日なにかタゴールを讃える会合があったりして、日本からも田中於菟弥先生がいらして出席しておられました。

 そのなかで、「なにか違うな」というのが、どう説明していいのかわからないのですが……。私は冷暖房なんかもちろんない学生寮に住んでいました。すぐに食べものにあたりまして、水にあたったんでしょう、たいへん高い熱を出して、しばらく寝込んでしまった。停電ばかりで扇風機も回らない、そういうなかでヒイヒイ言いながら寝ていたわけです。そこで日本から持って行った文庫本の『ギーターンジャリ』、また『シッダールタ』を読みながら、「ああ、インドへ行きたい!」と叫んでしまったわけです。実際にはインドでひっくりかえっていながらですね。(笑)そういうギャップというか矛盾というか、それになにしろ一つ大きなショックを受けたのです。

 とにかく、シャンティニケトンにタゴールが建てた理想の学園をたずねてみようと思いました。私といっしょに同期でインド政府留学生となった平野満君という東京芸大出身の油絵画家がいて、この平野君をたずねて、シャンティニケトンの芸術学部(コラボボン)に行ったわけです。彼の宿舎に泊めてもらったりしていたのですが、あるときうっかりとタゴールの縁のある地に、知らずに靴をはいたまま入ってしまった。すると先生のような方が飛んできて、烈火のごとく怒って怒鳴られました。「すぐに出て行け、すぐ帰れ!」というようなことで、ほんとうに驚いたというか悲しかったです。「タゴールはいつから神様になっちゃったんだろう」と。神殿であれば当然私は敬意をもって靴は脱いだだろうと思います。脱がなくてもいいとは思っていませんが、そのものすごい態度に私はほんとうに圧倒されて、驚きました。

 もう一つは、タゴールが愛したフォーク・カルチャーです。私はフォーク・カルチャーにつねに関心があるわけですが、たとえばタゴールは放浪詩人のバウルの歌を愛していて、バウルの思想を彼の本に取りこんでいると言いますが、ほんとうに彼はバウルを理解したのだろうか。またその歌を「ロビンドロ・ションギート」という彼の音楽に取りいれているとされますが、それもどうも違う。しかもはっきり言って、ポッリギティまたはバティヤリというようなベンガルの古い民謡の旋律は、彼に取りこまれるとおもしろくなくなってしまうのです。

 それから「ロビンドロ・ナーチ」という舞踊があります。北東部のマニプリ地方の芸能を取りいれて、タゴールがアレンジした舞踊様式を確立していくわけですが、これもはっきり言って面白くない。

 せっかくのすばらしい民俗芸能、民俗芸術をタゴールは「高めている」とよく人は言うのですが、私はどうも、逆のような気がしてならない。にもかかわらず、たとえばベンガルの大学生たち、私の同僚たちは、寄るとさわると歌うのは「ロビンドロ・ションギート」ばかり。もううんざりするほど、いやというほど「ロビンドロ・ションギート」を聞かせられて、「もうこれはたまらん」という感じになったことが、しばしばでした。それでちょっとタゴールからは離れてしまって、シャンティニケトンに行くことはあっても、あまりそうした聖域には近寄らないようになってしまいました。

 それからガーンディーについてもそうです。当然この方の偉大さはだれも否定できない、すばらしい、たいへんな人だと思います。しかし、私が1970年代の後半から追いかけていた手漉き紙の歴史のなかで、本来はムスリムのkāgzī(gh)、ムスリムの手漉き紙の工人が担ってきた伝統ある紙漉きの技術が、(いちばん大きな原因としてはイギリスの植民地支配ですが)どんどんと凋落してしまう。そしてそれを救うために、なんとかしないといけないとしてガーンディーが正面に押し出した二つの理念が、「スワデーシー」と「スワラージ」です。つまり経済的な自立更正による自治独立、これを達成しなければいけないという考え方ですね。

 そしてその「スワデーシー」のためには村落経済の復興、村の経済を草の根から興していかなければいけないと主張した。しかもそのやり方は、とにかくその材料は身近なものであること、すぐそばにあるもの。また紙を漉く技術が、だれでもできる簡単なものであること。そして経済的な点からすれば、当時いちばん経済的に困っていた、社会的に差別を受けていたいわゆる「不可触民」──ダリットという言葉はまだなく、「ハリジャン」(神の子)と呼ばれていましたが、そういう人たちを救うために多大な労働力として彼らを投入した。すべてはその高邁な理想のもとに彼が画策したことであったわけです。

 しかし実際には、そのどこにでもある材料として彼が目をつけたのは古紙を初め、サトウキビの搾り滓や藁、バナナの皮です。従来ごみとして捨てられてきたそのようなものを使うことは、エコロジカルにもたいへんすばらしいことですし、いいことなんですが、そのままでは繊維が硬くてぜんぜん紙漉きには適さないわけです。これまでの紙料、材料は、時間はかかりますが、古布を発酵させてよく練り叩き、ドロドロにしたものをしぜんに作っていったものですが、エコロジカルにはいいものであっても、身近にあるgarbage、野菜くずのようなものを紙料にするには、どうしても大型の機械が必要なのです。まずはそれを機械ですりつぶし、強いアルカリ溶液を投入して煮沸して、またツヤを出すため、あるいはにじみを止めるために、さらにいろいろな強い薬剤を投入して紙を作る。当然、手漉き紙としての質は落ちる。

 その上、そういった手間のかかるものは、当時少しずつ増えてきていたイギリス流の洋紙を漉く技術にはとても追いつかない。コストも高くついてしまう。そのためには労働賃金を抑えなくてはいけないので、ここぞとばかりに「不可触民」とされていた人たちの労働力を多量に投入するわけです。技術は単純なものへと切り替えられているため、ただレバーを押せばいい、足でペダルを踏めばいいという程度で、誰にでも紙漉きができるようなものへと変えられていったのです。

 しかし、このような機械化はガーンディーの最初の考え方とは大きく異なり、むしろ正反対のものになっていったということではなかろうか。しかも、そこに「ハリジャン」と彼がよんだ未熟な人たちを投入することで決定的な打撃を受けたのは、本来その伝統を守ってきたムスリムのkāgzī(gh)、ムスリムの紙漉き職人たちであった。すでに風前の灯だった最後の火を消したのはガーンディーだった、とまでは言いませんが、ひじょうにそこに、大きな矛盾が生じた。

 紙漉きの人たちとのインタビューのなかでも出てきた言葉ですが、「私たちは、本来の手漉き紙のもつ美しさを否定するものではない。しかし私たちは、紙を愛でる人たちの趣味のためにやっているのではない。紙漉きは趣味ではなく、われわれが生きるためのものだ」と。そう言われると、ほんとうに返す言葉がなくなるわけです。実際にそのインタビューのなかで「美を追求することとお腹を満たすこととどちらが大事か」と言われたならば、なんと答えるのか。そう言われると、もう一も二もなくギャフンと言うしかないわけです。

 ただし、ガーンディーがあまりにも底辺の人たちの経済のことを強調するあまり、美というものはまったく考えなかったかのように思える。私はそういう点では、もうどうしようもない趣味人でしかない外人の発言でしかないことはわかっているのですが、「美というものがまったく無くて、人は生きていけるのか」ということです。美術史などを勉強してきた人間としては、そこがどうしても引っかかってしまう問題なんです。経済だけでことはすむのか。社会問題の解決だけでいいのか。ガーンディーの場合には、そういう点がこの紙漉きをめぐる問題として出てきている一つだと私は思います。

 この問題はいろいろなことを含んでいると思います。もちろん英雄というか偉人はいろいろな側面をもっておりますので、100%すべてにわたって見事な存在であると言うことは、なかなか難しいのだろうと思います。ただただ偉人伝として出てくるような存在としてのみ奉ってしまっていいのか。タゴールの場合もそうです。

 そういったことを感じつつ、これからどうなっていくのかなと――。臼田先生もおっしゃってくださったように、いろいろなことに手を出していろいろなことを考え、書きなぐったり書き散らしたりしたものが、最終的になにかまとまりうるものかどうか、またはまとめる必要がそもそもあるのかどうかも含めて、反省することしきりであります。そのために今回の機会を与えていただいたことを、ほんとうにありがたく思っております。

 

●臼田「用と美」みたいな問題は、これはなかなか難しい問題だと思います。とくにガーンディーをタゴールが批判した一つの点は、ガーンディーのなかに「美」に関する視点がないということもあったのだと思います。根本的には近代技術をどのように受け止めるかという問題であったようですが、タゴールの言いたい点はもう一つ、やはり美はないがしろにはできないという問題であったと思います。

 食えないときに美とはなにかという問いがあります。私も20年以上前になりますが、『美わしのベンガル』(花神社、1992年)という訳詩集を出したことがあります。そのときバングラデシュを研究されている方に、「バングラデシュのあの貧困の現実を見て、『美わしのベンガル』とはおめでたいわね」と言われたことがありました。これは難しい問題です。

 たしかに切実さだけを考えれば、生き延びることのほうがたいせつだということになるでしょう。美の問題より先に生き延びることがたいせつだというのは、これはたしかな命題です。ただし、人間の生きている世界はもっと複雑で、そんなに単純なものではないと思います。われわれはある場合には美を前景化して、ある場合には用を前景化しながら、いわばその微妙なつりあいのなかで生きているのだという気がいたします。

 小西先生のお話で、ガーンディーやタゴールをどのように見るか。ちょっと私に引きつけて申しわけありませんが、私はガーンディーやタゴールが、けっして近代のインドの主流である人物だとは思っていないのです。代表する人物であったかもしれないけれど、主流であるとは思っていないのです。つまり、タゴールやガーンディーはあまりにもユニークであって、そのユニークなところは当たり前から外れている部分であると思います。ですから、タゴールやガーンディーが意味をもつのは、インド人のほとんどの人がそれに従って生きている生き方とは違うところから発問したところにあるのであって、けっしてインドそのものではないと思っているのです。

 その面で見ると、タゴールやガーンディーが周縁的な存在であると位置づけられるならば、周縁的なものをもっぱら扱って問いを発してこられた小西先生にとって、タゴールやガーンディーは、また違った面から解釈される余地があるのではないでしょうか。せっかくタゴールの『ギーターンジャリ』から出発されたので──途中でいやな思いはいろいろおありになったのだろうと思いますが、それをとっぱらってもう一度その世界に帰ってみると、そこには小西先生の世界とガーンディーやタゴールのなかに折りあいがつけられる部分が、私はあるような気がしてなりません。

 こうしてお話をうかがってまいりまして、ともあれ小西先生はひじょうに角をたくさんもって──「圭角」という言葉を使えばきれいになるのでしょうが――いろいろなものに違和感をもたれて、その違和感のなかから新たにご自分の発想をされていくという、ほんとうの意味でクリエイティブな存在であられたのだろうと思います。

 小西先生の時期も同じだと思いますが、私たちの時期でもインド研究は社会、経済そして政治を含めたものが主流で、そのころはそれをするのが男子の使命であると、私よりも上の方がたでそう思っておられた方はたくさんいらっしゃると思います。もしそれだけのインド研究になっていたら、有用ではあっても、かなり貧しいものになっていただろうと思います。さいわいそうはならず、はるかに多面的な展開ができる素地を作るうえで、大きな寄与をなさったのが小西先生であると私は思います。

 私などは文化に興味をもちながら、政治や社会、経済を最初はやらざるをえなかったのですが、もともと興味をもっていた文化の方へなんとか移りたいと思っておりましたとき、小西先生の存在は大きな支えというのでしょうか、「あのようにしていけば、あの山に近づくことができれば、なんとかなるかもしれない」という希望あるいは目標――そういう存在でした。

 本日の企画は「先達に聞く」ということでしたが、先生はインド研究における先達の役割を、本質的なところで果たしてこられた方だと私は思っております。

 

●小西 ほめ殺しのような感じで、だんだん居心地が悪くなってきました。(笑)そこまでおっしゃられるとほんとうに困ってしまうのです。とても先達としての役割を果たしてきてはおりません。ほんとうに忸怩たるものであるということは、くりかえし申しあげているとおりです。

 ここはインド学会でもパキスタン学会でもアジア政経学会でもなんでもなく、南アジア学会です。この南アジア学会で、総合的な、ホリスティックなさまざまなものをまとめた包括的な南アジア研究というものが生まれてくる基盤をもつならば、ほんとうにすばらしいことだと思います。それにはどんなにマージナルに見えることでも、いろいろな人がいろいろなことをやっていいんじゃないか、むしろそのほうが豊かな南アジア学会、南アジア学を作っていくのではないかという気がいたします。

 私は最初に「国」というものから自由になろうということを申しましたが、南アジアという地域の研究として、ホリスティックな文化、広い意味での文化のあり方、枠組みを明らかにすることが、この学会の使命ではないかと思います。そして、そのなかでどんな細かいマージナルなことでも、一人ひとりが他の研究をも認めあったうえで、それを統合して、より豊かなものにしていくことが必要なのではないかという気がするのです。

 幸いにひところと違って、だいぶこのようなマージナルな研究についても理解は深まってきていると思います。いまから数十年前、1976年のある南アジアの研究会では、その前年の1975年にあったインド総選挙をどのように総括するか、分析するかについて政治・社会の専門の方がたが集まって、ひじょうにホットな議論を繰り広げていました。そのなかで、私にもなんかしゃべれと言うので、1975年ではなくて「紀元前(・・・)1975年のグジャラート地方におけるハラッパー文化(インダス文明)の崩壊」という話をしたら、たいへんなブーイングをくらいました。(笑)「夢とロマンの話はそこまで。研究に戻ります」と宣言されてしまいましたが、これもきつい言葉でしたね。

 そもそも考古学とか文化人類学などというものは、とくに文化人類学の場合、村に入ってそこでなにか聞いてきたと言ったって、「それはその時空に戻ることのできないエビデンスにすぎない」と言われる。「ほかの人が聞いていないじゃないか。おまえ一人が聞いてきたことを事実として使って、いろいろなことが言えるのか」というような批判もありました。そういう証拠がないままの学問体系なんて意味がないというような偏見も、かつてはありました。

 しかし、いずれにせよ、あまりに細かいことに深入りしすぎると、全体が見えなくなってしまう。どういう全体枠のなかでの議論なのかということをふまえながら、南アジア学の構築のために、みんなでがんばっていく必要があるだろうというのが、私が最後に言いたいことです。

 

●粟屋 司会が出る幕はなく、小西先生と臼田先生がまとめてくださいました。私も言いたいことがあるのですが、その前に、せっかくですので、ご質問をフロアからいただきたいと思います。ご自由にお願いいたします。

 

●宮本久義 先生の今日のお話では、むかしのことをいろいろお話しいただいて、楽しく聞かせていただきました。たぶん一度、前にも聞いたことがあると思いますが、先生には『アフガニスタン』(講談社、1968年)という本があります。これをぼくは古本屋で探してほんとうにびっくりしたのですが、南アジアの研究をしているはずの小西先生が──たしかあれは単著でしたか。

 

●小西 そうです。まだ20代、学生時代に書いたものです。

 

●宮本 『アフガニスタン』という本ですから、この著者は違う「小西正捷」かな、と思ったのですが、やはり本人なんですね。どのような経緯であの本をお書きになったのかをお話しください。

 

●小西 カーレーズ(カナート、ガナート)という地下灌漑装置がイランからアフガニスタンにかけて発達していることは、前から知っておりました。そしてそれが地元の人たち、その土地の人たちにどんな意味をもっているのか、社会的、経済的または宗教的、儀礼的にいろいろなものを含んだ構築であるということで、カーレーズについてもっと教えてほしいと思っていたわけです。

 そしてそれよりも数年前に、資料の年譜にも書いたと思いますが、京都大学の隊員として拾っていただいて、アフガニスタンとパキスタンの発掘をしていました。とくにアフガニスタン滞在中にはダリー語とパシュトー語を少し勉強していたので、それをふまえて、東大の探検部の連中に、「アフガニスタンに行きたいから連れて行け」と。言葉も多少できるなら、いろいろ調べるうえで助けてくれということがあって、関心のないことではなかったものですから、出かけて行っていろいろなことを教えていただいたわけです。

 そこにはいわゆる地主小作制度ではなく、水主・水小作制度というものがすごく複雑にあった。しかもそれも、刈分小作、分益小作、またはいろいろなかたちでの地小作関係、水小作関係があることを知って、その後のインド、パキスタンでの社会を理解する上でも大きく裨益するものでありました。

 ただ、それよりも、同地でいろいろと見せていただくことがただ楽しかったんです。私は写真を撮るのが好きなものですから、ずいぶん写真をとりました。正式な報告書は1969年に東大出版会から出しましたが、講談社版は写真集なんです。「原色写真文庫」というものの一つで、ハンディな、写真をいっぱい入れたものです。いまでこそアフガニスタンの本はだいぶ増えてきてあふれておりますが、当時は岩村忍先生とか梅棹忠夫先生のものが1、2冊ある程度で、あとはまったくアフガニスタン関係の本はなかったのです。私の本がそこにポンと出てきたということで、私にとってもまだ28か29歳でしたから、処女出版もいいところで、こんなことをしていていいのかなという気もなくはなかったんです。おそらくは珍しさもあってわりと評判がよく、日本では初版で絶版になりましたが、アメリカで出た英語版は9刷まで行きました。これは私の本としては初めてのことでびっくりしましたが、そんなことで思い出のある本ではあります。

 

押川文子 小西先生、ありがとうございました。先生の民衆や文化に対する関心の背後に、日本の戦時中から終戦直後のご経験とかアメリカ一辺倒な大学へのいらだちとか、いろいろなものがあったことをおうかがいして、「ああ、そうなのか」とあらためて思ったしだいです。

 そのこととの関連ですが、小西先生は、インドのふつうの庶民たちの文化あるいは文化のなかのとくに「美しさ」というものを、ずっと私たちに見せてくださったと思います。ただ時代が変わってきて、そのあたりが最近ざわついていて、いい意味では流動性もあり、ある意味で庶民の文化が浸食されているような兆しも見えるような感じがあります。フォーク・アートや民衆の美、そういうものからだけでは、どうもインドの市民の生活が見えにくくなってきた、という感じがしています。

 私の見聞の範囲でいいますと、たとえば、ビハールの小さな田舎町の市場で、露天にぶら下がっている満艦飾の子ども服、あれを美しいというかどうかはわかりませんが、でも、村の人はあれを子どもに着せたいと思っているし、着た子どもはすごくうれしそうで、やっぱりこれも美のかたちなんだと、最近とても思うようになりました。そういう意味で、民衆の文化とか美というのは、どこにあるんだろうか。なにが根っこなんだろうか。うまく質問できないのですが、長いご経験からなにかお考えを、教えていただければと思います。

 

 

●小西 コメントありがとうございました。あるモノのもつ力というのは、やはりそれがどれだけ暮らしに根ざしているかということなのではないかと思っています。それが暮らしから切り離されたときに、それは単なる、それこそ絵空事になってしまったりする。そのことの脆さですね。そこをしっかりと見ていかないといけないとすれば、守らなければいけないのはモノや技術ではなく、それを生んできたその背景、磁力と言いますか、その村落社会自体のもつ力ではないのか。それがどんどんグローバリゼーションとか、またはいろいろなかたちで変容していったときに、そのかたちも変わっていかざるをえない。

 そしてそのなかにコマーシャリズムも入ってきますので、「これは美しい」、「これはすばらしい」、「これは見事だ」と、今度は美のほうが先に歩いていってしまって、バイヤーまたは商魂に長けた人たちの手によって、村の暮らしのかたちがその地域を代表するモノへと昇華していき、その地域を代表するモノからさらには民族、ひいては国家を代表するモノとしてチヤホヤされていってしまう。

 たとえばかつて「Festival of India」という国を挙げてのイベントがありましたが、ああいうところでは、本来はビハール州の小さな村の土壁の家で描き続けられてきたものが、「ビハール州の芸術」、ひいては「インドの芸術」というようにどんどん高みへ上がってしまって、その本質が変わってしまう。この怖さ、難しさを見据えていかなければいけないのではないかという気がいたします。

 

●高田峰夫 貴重なお話をうかがってありがたかったのですが、今日のお話では出てこなかった点で、資料に「社会における活動」として、先生が船橋市と香取市の文化財保護委員をされていることが書いてあります。じつは私がバングラデシュの研究をする前に、千葉県で調査をしていたころ、天道信仰のことで小西先生のお話をうかがいに一度行ったら、「じゃあ実際に祭りを見に来なさい」という話をされました。小西先生はずっとそちら側の研究もこっそりとやっていらっしゃる。(笑)

 今日のお話をうかがうと、邦楽の家ということでしたが、それが二つに分かれていったのか、それとも小西先生のなかではずっと一つで根っこがつながっているのか、そのあたりはいかがでしょうか。

 

●小西 やはり日本人ですから、日本文化というもの、そしてそのなかでも私がどこにその根をもつか──実際には我が家は6代にわたって東京、江戸の人間で、そういう家系のためあまり地方的な文化の根をもっていないので、なおのことこだわりがあるのかもしれません。それで東京を離れて、最初は市川、それから船橋、習志野とどんどん東京から遠くへ行って、いまでは香取郡に住んでいるという次第なんです。

 船橋にいるときに、二宮神社という大きな神社の大祭が12年に一度の式年大祭としてありまして、それを見学しに、鈴木正崇先生が率いる慶応義塾大学の学生が11人(高田さんんもおられた?)、わが家へ泊まりにきたんです。よくもそんなに泊まれたもんだと思いますけれども。まあ、せまいところに寝ていただいて、夜どおしのお祭りを見ました。

 そういうようなこともあって、私はそのときどきに住んでいるところの文化に、いつもこだわっています。先ほど臼田先生がおっしゃった、ガンガーみたいな利根川の流れと河川敷、そこに育まれてきた祭りや風習を、どうしてもほうっておくわけにはいかない。その研究や発言を続けるなかで、ここでは主な業績のなかには挙げておりませんが、じつは教育委員会から何冊か本を出しております。とくに「天道念仏」という念仏を追いかけたものをまとめたりもしております。そのなかでずいぶん長いこと文化財審議委員をさせていただいておりまして、学ぶことがいっぱいあります。

 どうしてこのように千葉の奥へ奥へと行くことになったかの問題は、一つは先ほど最初のほうで申しあげたように、戦後はおなかがすいてたまらなかった、都心の赤坂ではほんとうに食べるものがなかったということ。ほとんどそれは、今でも脅迫観念です。ところがこちらに来てからは、なにも言わなくても門の外にだれかが野菜か米を置いていってくださる。そういうところに住んでいるものですから、これはもうたまらんですね。(笑)そんなこともあって、私と千葉県との関係があるということです。

 

●関根康正 私がなにか言う必要もないですが、とても感銘を受けたので、一言しゃべらせていただけたらと思います。

 まず、先生には立教大学の非常勤講師によんでいただいたりして、おつきあいさせていただいて、ほんとうに感謝しております。先生のことをあまりよく理解していないところもたくさんあるのですが、今日のお話を聞いて、いくつかすごく感動して納得しました。

 まずは最初におっしゃった「国家」。「国」とおっしゃいましたけれども、私は「国家」という感じがしました。国家に対する嫌悪ということです。私も私なりにそういうところがあるのですが、これはいま世界でものすごく大きな問題になっている。この前スコットランドの独立を問う投票がありましたが、あれはいったいなんだったのでしょうか。あれは「国家」を追求しているのか、自分たちの国というか、英語で言う「Nation」──もっとなんと言うのでしょうか、「民族」とも訳せるし、あるいはなにか自分のノスタルジアというかふるさとを守りたいという想い、国家のようなハードなものでは言い切れないものへの希求だったのでしょうか。

 先生のご研究全体については、フォークロアということ、Folk cultureということへのこだわりを私はすごく感じるのですが、そのFolkといま言ったやわらかいNationとか──いい意味で、住んでいる場所とのつながりのなかにモノがあり、人があり、場所がある、土地があるというようなことを、たぶんずっと追究されてきたのではないかと思います。

 その意味で、先ほど先生も批判されましたが、文化人類学がシンボル、シンボルといってやってきましたし、そのシンボル研究も輸入でしたが、最近のMaterial culture研究も輸入で、やっと先生が最初からやっていることに戻ったのか──戻ってはいないと思いますが、違ったレベルでモノがいま強調されております。いまあらためてイギリスなどでは考古学、人類学が共同研究をたくさん組んでいますが、そういうものをある意味で──「先取り」というのではなく、日本の文化人類学の根っこにこういう先生のような見方がじつは、たぶん先生お一人ではなくあったのだろうと思います。そういうものをわれわれがむしろ明確に取り出せずに忘れていって、今さらながら輸入学問の刺激で迷いながらみんな考えはじめているという具合です。

 立教大学で教えさせていただいたのは、4年間くらいだったと思いますが、いま思うととてもありがたい経験だったというか、あの学科はおもしろい学科でしたよね。地理と歴史と人類学、フォークロアもあったでしょうか。小西先生はじめ青柳真智子先生とか香原志勢先生とかがいらして、とても魅力的な学科で学生もたくさん来ていました。先生が定年で辞められたとき、インド研究をする学生がたくさん残ってしまい、たいへんなことになって……。

 

●小西 学科がつぶれました。(笑)

 

●関根 それで学科がすっかり変わってしまいました。あの時の学科の在り方は、ある意味でとても先生の思想が反映しやすかったでしょうし、ああいう研究・教育の場が立教大学から消えてしまったというのは、あらためて今日お話を聞いて、ほんとうに残念だなと思いました。

 このようなお話をせっかく聞けたことを私も心にとめて、人にも話したいし、共有していきたいと思います。ほんとうにありがとうございました。

 

 

●粟屋 関根先生のあとに話すと蛇足になってしまうのですが、私から一応お話しします。関根先生はやはり「先取り」という表現は避けて使われなかったし、私も避けるべきだとは思いますが、今日のお話を聞いて、1980年代以降、悪い意味でトレンディになったりファッションになったさまざまな潮流、いわゆるせまい意味でのアカデミックななかでの潮流というものを、とっくに先生がされていたという感じを強く受けたのです。

 先取りという意味は、もちろん世代とか時代が違うので同じ次元では語れませんが、たとえば名もないチョトロクへの関心などというのはある意味サバルタン・スタディーズかなと思ってしまうし、あるいは関根先生のおっしゃったモノというのは、歴史にせよ人類学にせよ、このごろ難しい理論を駆使しながら議論されているところですね。

  また感性的なものに関しては、アナール学派のマンタリテ研究のような動きもアカデミックな領域ではあったわけですし、国に対する強い違和感──国というか「State」だと思いますが、それは国民国家論の流れにかなり重なる部分もある。先生の多岐にわたる関心のもちようが、新しい、違う次元で繰り返し見直されているという図式が見えて驚いたという感じがいたしました。

 繰り返しになりますが、いま扱っているこの「先達に聞く」というシリーズの場合には、終戦、敗戦直後の研究者の方がたということで、世代でその感覚が違うのは当然ですが、おそらく共通しているのは、おもしろいものを見つけること──おもしろいと感じるものというのは、やはり世代で違ってきていると思うし、個々人の研究者のそれこそ感性のありようで、これはもうどうしようもないので、鈍感な人間はだめな、落ちこぼれるでしょうけど、おもしろいものを見つけること、それから確立した権威のあるもの──見方であれ、権威のあるものに対してつねに疑問をもつこと、そういった感性というものが各時代で重要なのではないかと、私自身は今日のお話で学びました。

 それから、「母語」と「母国語」の使い分けのもつ意味というのは、ひじょうにわかりやすく、ストンと落ちるお話でもありましたし、そのほかもろもろ「調査」という物言いが含むさまざまな問題など、きりがないですが、私としては個人的にじつに勉強になりました。今日参加なさらなかった方にもこの内容を共有できるようなかたちをめざしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 付け足しですが、私が好きな先生の言葉としては、「顔の見える人類学」とか「暮らしに根づいたモノ」、そういう話とか表現が個人的には好きなんです。そういう先生のスタンスから、多くの写真を撮られてきた。その7,000か8,000枚あるという写真のコレクションが、いまあるプロジェクトによって保存のプロセスにありますので、これも今後若い世代と共有できるはずです。しかも先生はプロ並みというか、素人写真ではなく、とてもすばらしいものです。いずれ共有できるはず、という情報を伝えまして、終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

  

 

 日本南アジア学会26回全国大会 ■■

先達に聞く 第1回

―日本の南アジア研究とその時代-

 前田專學(東京大学名誉教授)

聞き手 丸井 浩(東京大学教授)

司会 押川文子(京都大学教授)

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●押川文子(司会)「先達に聞く――日本の南アジア研究とその時代」というセッションを企画させていただきました京都大学の押川文子です。本日の司会をさせていただきます。

 ご承知のように、戦後の南アジア研究はすでに50年、半世紀を超える歴史をもってまいりました。それぞれの分野での研究の発展や歩みについて、学んでいる研究者は多いと思いますが、研究がどのように行なわれ、どのような問題関心について研究の蓄積があり、そしてそれがどのように蓄積されてきたのか、いま私たちが受け継ぐべき南アジア研究の蓄積と今後の課題はなにかについて、ゆっくりと、少し広い分野であらためて考える機会は、じつはそれほど多くはないのではないかと思います。そこで常務理事のなかから「そろそろ先達のお話を伺うセッションを学会大会でも企画できないか」というアイデアが出ました。この企画の最初の会に、インド哲学にたいへん大きな足跡を残してこられた前田專學先生にご登壇いただき、丸井浩先生に聞き役をお引き受けいただくという素晴らしい企画ができましたこと、両先生に心から御礼申し上げます。

 

●丸井浩 みなさまこんにちは。聞き手を務めさせていただきます丸井です。本日は、本来でしたらお二人の先生が先達としてご登壇される予定でしたが、急遽、前田先生お一人にインタビューするということになりました。時間はゆったりとございますが、前田先生があまり質問攻めでお疲れになってもいけませんので、80分くらいを目途として進めさせていただきます。

 私は現在、東京大学でインド哲学を講じておりますが、私の先任者が前田先生で、私は前田先生の不肖の弟子の一人です。本来でしたら、もう少し若い方がインタビューするという趣旨だったと思います。おそらくフロアに若い方がたが多くいて、その人たちのためにという状況を念頭におかれていたのだと思いますが、ざっと拝見いたしますと割と年齢層が高いようです。(笑)ですから私がインタビューしても差しさわりなさそうでほっといたしました。

 前田先生が東京大学の助教授になられたのは1973年で、私は1974年にインド哲学研究室に進学しましたので、それ以来ずっとお付き合いさせていただいております。先生はとにかく几帳面な性格で、どんなに短いスピーチでも必ず原稿を用意される方ですので、今回も8月ごろには原稿がほぼできあがっている状況でした。ですから、お手許にある資料をご覧になれば、だいたいのことは板書しなくてもすむように準備万端に整っています。

 その資料を拝見していて、私もまた先生についてあらためていろいろな新しいことを発見しました。その意味では、先生に今回インタビューすることは、私にとっても新しい発見があります。どれほどうまくインタビューの進行役を務められるかわかりませんが、前田先生がしっかりされているので、私がする仕事はあまりないかなと思っております。

 冊子にしていただいた資料、報告要旨集の62、63ページに、先生の略歴、主要業績、インタビューのポイントが書かれています。この六つないし最後のまとめを入れた七つほどのインタビュー・ポイントに沿って、進めさせていただきます。

 最初に是非ともお伺いしたいのは、先生がなぜインド哲学という分野を勉強されるようになったのか、という点です。実は私自身、なぜサンスクリットを勉強し始めるようになったのだろうか、自分自身でもよくわからないのです。前田先生はお寺のお生まれでもあるので印哲まっしぐらかと思いきや、どうもそうでもなさそうです。最初に、インド哲学を専門とするにいたった経緯について、生い立ちにお触れいただきながら、とりわけ中村元博士との出会いは大きな転機だろうかと思いますので、そのあたりを含めてよろしくお願いします。

 

●前田專學 ただいま丸井先生からたいへん詳しいご紹介を受けまして、もう私はお話しすることがないような気がいたしております。(笑)しかも、今日は古賀先生とごいっしょできると思っておりまして、それならばお引き受けしようと引き受けたのですが、いつの間にか降りられてしまいましたものですから、私一人という結果になってしまいました。それなら私も病気になればよかったかなと、ちょっと慚愧に堪えないところもございますが、せっかくの水島司先生のお計らいでこのような機会を与えられましたので、みなさま方のなにかのご参考になればと思います。私のごとき者のことは、あまり参考にならないのではないかと心配しておりますが、……。

 私が生まれましたのは昭和6年、1931年の4月1日でございます。私が生年月日を聞かれて「4月1日だ」と答えると、「えっ」と言って誰も信用しないと冗談をいつも言うのですが、実際は4月2日の生まれなのです。ところが、4月1日にすると早生まれということで学年も早くなりますので、家族がそのようなことを考えて4月1日にしたらしいのですが、体が弱くて、結局は4月2日生まれの方と同じ学年で進むことになりました。

 どこで生まれたのかということですが、愛知県の名古屋です。かつては海部郡といっておりましたが、現在は名古屋市に入っています。私が3人目の子どもで、末っ子だと思っておりましたところ、下にもう一人妹が10年後にひょっこり生まれまして、4人兄弟の3番目というかたちになってしまいました。

 私は寺に生まれました。その寺というのは、かつて前田一族が前田城という城を構えていた城の跡に建てられている寺で、速念寺という名前のお寺です。その速念寺の阿弥陀如来像は、前田利家の寄進と伝えられております。実際に蓮台のところを見ますと、名前が書いてあります。そのように、前田家とは関係のあるなかで生まれ育っております。

 専攻はどのようにして選んだか。先ほども丸井先生がおっしゃいましたが、昭和26年、1951年の4月に東京大学の教養学部に入学して、昭和28年の4月に印度哲学梵文学科に進むことになりました。

 インド哲学などというものは虚学の最たるものと見られておりまして、実学に比べるとおよそ就職もないし、経済的にも恵まれないような専攻でございます。なぜこんなところに進んだのかということですが、先ほど申しましたように、寺で生まれたことが一つの大きな理由かもしれません。しかし、寺に生まれた者がかならずこのような専攻に進むわけではございませんから、これが大きな理由かどうかはわかりません。

 そういうなりゆきだったことと、私の兄のことがございます。私の兄は前田惠學と申します。前田惠學の「惠」という字は私の「專」という字とよく似た字で、上は同じで下の「寸」と「心」とが違うだけなのです。「兄弟で一寸、心もち違う」というようなことを言っておりましたが、その兄がインド哲学、しかも原始仏教という課題に取り組んでおりました。それが一つの刺激になったということは、可能性があります。私も原始仏教を研究してみたいというかすかな希望をもって、大学まできたのだと思います。

 私の運命を決定的に決めたのが、教養学部の2年目でございました。東京大学では、いまはあるかどうかは知りませんが、私のときには本郷の学部の先生が教養学部に来て専門の科目を教える制度が後期にございました。そのとき来られたのが中村元先生だったのです。先生はちょうどアメリカのスタンフォード大学にお呼ばれになって、1年間むこうで講義をされて帰ってこられた40歳の脂ののりきった時代だったのですが、その先生が「インド思想史」という講義を担当されました。それを聴いてたいへんに刺激を受けて、「この先生についてインド哲学を勉強したい」と思い、それが決定的な要因になったようでございます。そのようなことが、私を今日あらしめたことだろうと思います。

 

●丸井 ありがとうございました。前田先生はかの有名な前田一門のご出身です。私はいろいろな学会のお仕事も先生の下でさせていただきましたが、先生はご覧のようにたいへん穏やかな人格者でいらっしゃるのですが、意外に人使いが荒いと称されている。(笑)これは結果的になのです。結果的には、いつのまにか先生のご指示の下にたいへんな仕事を背負っていることにあとで気づくのですが、最初のうちはソフトですから、だまされたようにして、「わかりました」とお引き受けしてしまうのです。

 つまり先生はお殿さまなのです。前田家の生粋のお殿さまの星の下に生まれていて、大きな決断を軽くなさって、必ずそこに僕(しもべ)がつく。そういう星の下に生まれておりますから、まだまだ南アジア学会のみなさまにもなにか降ってくるかもしれません。そのときは軽く受けていただいて、あとでゆっくり後悔していただければと思います。(笑)

 それから、お兄さまと同じことをしようと思われたというのは、ちょっと意外ですね。もし私がその立場でしたら、同じ勉強はまずしないと思うので、ご兄弟でたいへん仲がよいのだなと思いました。

 なんと言っても、いちばん脂がのりきったときの中村先生は光輝いていて、知らず知らずのうちに「この先生の下で勉強したい」というお気持ちが湧き上がってきたのでしょうね。これは人文学に限られたことではないと思いますが、学問の伝統を継承するうえで偉大な先人の薫陶を受けるということは、たいへん大きな要素にちがいありません。「なにかを学ぶ」というときの「○○を学ぶ」というのは、学問が深まるにつれて、どこかで「○○に学ぶ」、「ある人に学ぶ」あるいは「インド哲学に学ぶ」というようにシフトしていくのではないか。これが学問の深まりではないかと思います。その出発点は、やはり「人に学ぶ」。この要素を抜きにしては、人文学の深い研究の意味はないのではないかと痛感します。

 ただし最近は、人文学の領域でもプロジェクト型が多く求められるようになり、まだ人がしていない目新しい研究対象を探し出すなどして、出来る限り早く成果を上げなければならないという時代の風潮があります。先生がじっくり読んだテキストをその先生から学んで、そこで基礎訓練を受けたうえで、下地となったものを活かして新たな分野を自分が開拓するような余裕がなくなってきたという時代的な問題があって、おそらく学問のあり方や研究者のあり方が変わっていくのではないかと、これはちょっと残念だなと思います。以上、生い立ちからインド哲学を専門の勉強として選ぶに至るまでのことをお話しいただきました。

 インドの哲学の流派は、よく六つ数えられます。六派哲学などといわれているなかで、先生のご専門は、もっとも仏教思想に深い関係がある、そして今日のインド哲学のなかでいちばん勢力を張っているヴェーダーンタです。とりわけヴェーダーンタのなかでもシャンカラの系統──「不二一元論」といっておりますが、いわばその総元締めであるシャンカラの卓越した研究によって、先生のインド哲学研究者としてのステータスは不動のものとなりました。そのシャンカラ研究について少しお話しいただきます。そのあと引き続いて、アメリカに留学なさって、その後インドやドイツでもさらにご研鑽を積まれたというところにつなげたいと思いますので、先生のご専門の話をお伺いしたいと思います。

 

●前田 私の専門は学部のときから始まっております。みなさま方もそうでしょうが、学部では論文を書かなければならない。そこで中村元先生にご相談しました。中村先生は、「仏教研究者が最初から仏教の研究に入ると、なかなか古来の宗派の立場に立った教義学の考え方から出られない。だから若いうちは仏教の源流であるインドの思想を研究しなさい」ということを、中村先生ご自身の先生である宇井伯壽先生から、ご自分が論文を書くときに言われたそうです。中村先生はそれを引用されながら、「インド哲学を研究するのであれば、インド哲学の主流であるヴェーダーンタ哲学を研究しなさい。ヴェーダーンタ哲学を研究すれば、ヴェーダーンタからはインド哲学のどこへでも拡がる。仏教にも拡がるし、インド哲学のプロパーのほうにも拡がっていく」。そのようなことをおっしゃいました。

 そこでインド哲学のなかでもヴェーダーンタを卒論のテーマに選ぶことにしたのですが、それだけでは論文は書けません。ヴェーダーンタと言ってもかなり領域が広いですから、どうしようかと思いながら研究室の書庫などを探しているうちに、一つの本にぶつかりました。それはJagadanandaというインド人が出した『ウパデーシャ・サーハスリー』というシャンカラの作品の原文と英訳でございました。

 それをパラパラとめくっていましたら、シャンカラの門戸を叩く者に、シャンカラはまず最初に「君は誰ですか」という質問を発するのです。私であれば、「私は前田です。かくかくのものでございます」という返答をすると思います。しかしシャンカラの立場からすると、その返答は間違いなのです。「私は前田です」というときの「私」というのは、前田という名前をもった身体を意味しているに過ぎないのです。本来の自己であれば言語表現はできないものですから、その返答は間違いであるということでどんどん相手を問い詰めて、真実の自己とはどのようなものかを悟らせていく問答形式のものであったのです。それにすっかり魅了されて、ヴェーダーンタのなかでもシャンカラを勉強することになりました。

 シャンカラと申しますと、これまた300点以上の著作がある。それからどれを選ぶかということになると、また途方に暮れるようなことで、結局は最初に読んだ『ウパデーシャ・サーハスリー』を研究してみようということになりました。『ウパデーシャ・サーハスリー』は比較的短いものです。シャンカラの著作はだいたい注釈文献でしたが、これは単独の作品なのです。ですから、シャンカラの独自の思想を知るには好適な著作であろうということもありまして、『ウパデーシャ・サーハスリー』を選ぶことになりました。

 当時はシャンカラの作品といえば、だいたいテキストもよく整っているとされていて、批判的な出版、いわゆるクリティカル・エディションと称するものは出ていませんでした。しかし、やはり批判的な出版が必要ではないか。と申しますのは、シャンカラにはたくさんの師弟がいて、いろいろな教え方をして、いろいろなバージョンができているのではないか。そのことから、批判的な出版をぜひ作りたいとも思い始めたのです。

 しかし、そのためにはインドの図書館などに保管されている写本を集めなければならない。そういうことになったのですが、これは当時としては考えられない状況でございました。みなさまはおそらくお生まれになっていないのでお分かりにならないでしょうが、1945年に日本が負けて、日本はほんとうに焦土と化しておりました。日本国民が飢餓線上にさまよっているという時代から5年後、1950年以降になりますと、皮肉なことに朝鮮戦争が始まります。その朝鮮戦争が始まったことによって、1956年以降は神武景気とか岩戸景気、いざなぎ景気など、国民所得の率が10パーセントぐらいずつ上がっていく高度成長の時代に入ることになりました。

 しかし、そういう時代になったから国民の生活が楽になったわけではけっしてございません。当時、東大などの教授の月給は3万円くらいの時代です。アメリカの人文系の教授の場合は、年俸2、3万ドルです。ドルと円とは最近ではほとんど価値が同じですが、当時はそうではありません。昭和24年、1949年には、ご存じのようにアメリカのジョゼフ・ドッジというデトロイト銀行頭取がやってきて、政策で1ドル360円という固定相場制に変わりました。昭和48年の変動相場制に移行するまでは、1ドル360円の固定為替レートでございます。

 しかも、日本政府は外貨がないものですから、学生が留学することになっても、ドルを欲しいだけ売ってくれるというわけにはいかない。学生が留学したいと申しましても、外国からの招聘があれば、あるいはどこかの奨学金を獲得したとかいうようなことがあれば行けるのですが、そうでなければまず出られない状況でした。外からなにか奨学金をもらって行けるようになったとしても、僅か15ドルをわれわれに売ってくれるだけで、それ以上のドルは出さない。しかも再度申請することは許されませんでした。およそ留学などということは考えられないような時代でした。現在のみなさま方の恵まれた環境に比べれば、われわれの学生時代は非常に悲惨な時代であったわけです。

 

●丸井 ありがとうございます。先生がヴェーダーンタのシャンカラの数多くの著作のなかで選ばれたテキストが、『ウパデーシャ・サーハスリー』であり、その作品の冒頭の問答に魅力を感じて、勉強なさったということでした。「あなたは誰か」という問いに始まって、「真のあなたとはなにか」、真の自己の探求という答えへと導くというお話をお聞きすると、いかにも禅問答を連想させます。やはり仏教との通じ合いは、ヴェーダーンタあるいはシャンカラに強く感じられるところだと思います。

『ウパデーシャ・サーハスリー』というと「千の教え」です。「千の」というと『千の風になって』という歌を思い出します。ヴェーダーンタあるいはシャンカラは、「すべては一つ」という教えで、私たち一人ひとりの命は個々別々ではなく、ブラフマンとかアートマンなどに一体となる、という一元論の思想です。私は『千の風になって』という歌を聴いたときに、これはヴェーダーンタの思想を歌っているなと思いました。「死んだら風になってそよぐ」とか「星になってみなさまを照らします」ということですので、「千の教えにのって」という感じです。岩波文庫のなかにインド哲学の唯一の書物として入っているのが、先生の『ウパデーシャ・サーハスリー』の本でございます。

 円の価値はいまから比べれば100分の1まではいかないと思いますが、先生はその後ご苦労のなかで渡航費だけを支給されてアメリカに渡ったということです。このあとは、海外での先生の研究、あるいは教鞭もとられておりますから、そのご苦労の話を伺いたいと思います。

 ただしその前に、一つだけお伺いしたいことは、もしかすると先生ご自身はそこまで意識されていないかもしれませんが、私はシャンカラという思想家の特徴として、すべてはブラフマン、アートマンただ一つであって、われわれ人間一人ひとりの個々の努力については否定的に見ているという感じをもつのです。つまり行為あるいは瞑想とか、自らの努力によって仏教でいうところの目覚めにあたるものが達成されることを極力廃する。この自力否定の考え方が、先生がお生まれになったお寺が所属している浄土真宗の祖師、親鸞の「他力」の考え方──つまり自力を廃し、もっともベースであるのは他力であるという、この考え方とシャンカラの思想がどうもつながっているような感じがしています。先生ご自身は、そのあたりについてなにかお考えになったことはございますか。

 

●前田 あまりそのことを考えたことはないのですが、インド的な考え方では、カルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガとの関係になるわけです。シャンカラの場合はジュニャーナ・ヨーガに属して、知識、すなわちブラフマンとアートマンの知識だけが悟りへの道であるというわけです。行為を否定するのは、無明があるから行為が起こるわけで、その無明を否定するのですから、それは個々の人間の行為の価値まで否定するとか、そういうことまではいっていないわけです。知識を得るためにも行為は必要ですから。

 

●丸井 それでは次に、先生が留学なさって、そこでいろいろな先生と出会ったお話をお伺いしたいと思います。

 

●前田 その当時インドの国費留学生というものがございまして、「留学したい」という希望を中村先生に申し出ました。「私もインドの国費留学生として行きたい」と申しましたら、中村先生はどうしたことかそれを肯んじられないで、「君はインドではなくアメリカのW. Norman Brown先生のところに行きなさい」という話になって、さっそくBrown先生のところに手紙を書いて下さいました。私はそのとき初めてW. Norman Brownという名前を聞いたのですが、まったくどのような先生なのかも知らない、どこの大学で教えられておられるのかも知らない状況でした。そういう状況でありながら、「とにかく行ってらっしゃい」ということでしたから行かなきゃならなくなりまして、行ったわけです。

 参りましたら、Brown先生というのは、古典インドの研究の大家であると同時に現代インドのことについても指導的な立場にある方だということがわかってまいりました。私がまいりましたペンシルバニア大学の大学院には、インドを研究対象とする学科が二つありました。一つは嘗て著名なF. エジャートンが教鞭を執ったことのある、 古くからある伝統的な東洋学科(Department of Oriental Studies)で、その中に日本学などと並んで古典インドを研究対象とするインド学専攻(Indic studies)がありました。今一つは第二次大戦後、ブラウン先生がアメリカの他大学に先駆けて創立された南アジア地域研究科(Department of South Asia Regional Studies)という二つ学科がありました。私が行ったときには、ブラウン先生は両方の学科の学科長(Chairman)で、東洋学科のインド学専攻には2~3名程度の学生しかいないのに対して、時流に乗った南アジア地域研究科には数十名の学生がひしめき、教員も色々な専門の研究者が10数名おり、インド学専攻はあたかも南アジア地域研究科の1専攻のようで、インド学専攻の私は、インド学専攻は南アジア地域研究科に軒を貸して母屋をとられたのではないかと思ったりしておりました。

 私が学生のころは、少なくとも東大では『リグ・ヴェーダ』というと一つの聖域でございました。『リグ・ヴェーダ』なんてものは日本人の読めるものではないという感じで、およそ学生などの立ち入るところではないような雰囲気でございました。しかし行ってみますと、Brown先生のところでは学生が読んでいるわけです。私もBrown先生の学生として、そこで『リグ・ヴェーダ』を読む機会を与えられました。そのような古典研究だけではなく、South Asia Regional Studiesもありますから、そちらの指導は他の方からいろいろと受ける機会もございました。

 Brown先生がアメリカのいろいろな大学の方がたと協力して作られたのが、American Institute of Indian Studies(AIIS)という機関です。アメリカの出先機関として1961年にAIISがインドのプーナに設立されました。私はそのリサーチ・フェローとして1962年にインドに行くことになりました。行ったところはマドラス大学です。

 マドラス大学には、T.M.P. Mahadevan教授というヴェーダーンタの大家がおられました。その下で研究をすることになりました。それをしながら、私としては批判的な出版をしたいということが中心でございましたから、あちこちの図書館などへ行って、写本を集めてコピーをとることをしたのです。

 ところが、当時のインドの国力は日本以下に悪いといってもよい状況で、写本をコピーするにはマイクロフィルムがいるのですが、マイクロフィルムとなれば外国から輸入することになるので、インドではなかなか手に入らない。幸いなことに私の通っていた写真屋さんがフィルムをもっておりまして、そこで買っては、あちこちの図書館へ行ってマイクロフィルムを撮ることをしました。あちこちの図書館から写本を集めてまいりましたが、結局インドではマイクロフィルム・リーダーが手に入らない。集めたのはいいけれども、それを読むことができないという状態で終わっておりました。

 1年間インドにいたのですが、その翌年には、幸いブラウン先生の紹介で、今度はドイツのPaul Hacker教授という、当時としては非常に権威のあるシャンカラ研究の第一人者である先生の許につくことになりました。その先生の研究が、私の研究のたいへん大きな支えになっておりました。“Eigentümlichkeiten der Lehre und Terminologie Sankaras: Avidya-, N a-mar u-pa, M a-y a-, I-s´vara”というのがその論文です。先生は、この論文で、シャンカラの主著『ブラフマ・スートラ注解』におけるそのAvidya-, N a-mar u-pa, M a-y a-, I-s´vara”という四つの術語の使用方法を厳密に検討され、シャンカラの直弟子とも異なる特徴を見出されたのです。これは一つの大きな発見でして、シャンカラの作品が真作かどうかを判定するにはたいへん有利な武器になるものです。この論文が見つかったものですから勇気百倍になりました。批判出版と真作かどうかという検討と、両方を進めうる武器ができたのでした。

 インドでは、批判的出版のためのマイクロフィルム化した多数の写本を手にして、真作かどうかという問題に関しては、いま述べたような基準となるものが得られました。その他にも私が2、3考えた方法もございますが、そのようなものを加味しまして、『ウパデーシャ・サーハスリー』はシャンカラの真作に間違いないだろうという結論をもって、1962年にはフンボルト財団のリサーチ・フェローとしてドイツにまいりました。

 そこで1年ばかりHacker先生の薫陶を受けました。Hacker先生というのは、たいへんシビアな先生でございました。たいへん神経質な方で、「天才と○○は紙一重」とか申しますが、そのようなタイプの先生でございました。マドロス・パイプをくゆらせて、横から見ているとたいへんすばらしい肖像に見えるような人でございました。そのようなところで研究を進めました。

 時間がありませんので、ドイツの話はこのくらいにしてアメリカに帰ることにいたします。アメリカに戻って写本の研究を進めてやっと研究を完成させました。これが完成した『ウパデーシャ・サーハスリー』のクリティカル・エディションS´an.kara’s Upade s´as a-hasri-, Critically Edited with Introduction and Indices (Tokyo: The Hokuseido Press, 1973)で、私の主要な著書の一つです。主要著書の2番目がA Thousand Teachings: The Upade s´as a-hasri       of  S´an.kara, tr. with Introduction and Notes (Tokyo: The University of Tokyo Press, 1979) です。Introductionで哲学的な検討を加え、本文がテキストの英訳と注記と索引からなっています。

 それから主要著書の3が、先ほど丸井先生がおっしゃった批判的テキストに基づいた邦訳がこの『シャンカラ著「ウパデーシャ・サーハスリー――真実の自己の探求――」』(〈岩波文庫〉岩波書店、1988)です。そして4番目がこちらにございますが、『ヴェーダーンタの哲学──シャンカラを中心として――』(〈サーラ叢書〉平楽寺書店、1980)というものです。このようなものをまとめて私のシャンカラ研究の結論が出たところでアメリカでの生活も終わり、日本に帰って参りました。日本では、仏教関係の本の出版は比較的容易ですが、婆羅門系統の、しかも英文の出版はきわめて困難です。

 

●丸井 ありがとうございました。先生の研究者としての主要業績の足跡をお伺いすることができました。最初に中村先生から「Norman Brown先生のところに行きなさい」と言われたことが、その後の先生の研究生活を大きく方向づけることとなり、さらには日本南アジア学会発足にまでつながることにもなった経緯が、よくわかりました。

 Norman Brown先生は、今日の日本でいうところの日本印度学仏教学会と日本南アジア学会の両方をカバーする先生だった。つまり一方においては古典研究、古典を文献学的にきちんと読む原典主義というものがある。これは極端に高ずれば、たとえばヨーロッパのインド哲学研究者のなかには、対象はインドの古典研究であっても生のインドには行かないというタイプが、極論するとあり得るわけです。テキストの校訂に専念するということからすると、写本という資料を手に入れれば、あとはデスクワークでヨーロッパの知性をもってある種の成果を上げられるということが、一方においてはありうるわけです。

 しかしNorman Brown先生は、古典研究をすると同時に現地主義、「生のインドを見なければだめだ」という、もう一方の現代インド研究をもカバーするパイオニア的な学者でいらしたのですね。Norman Brown先生が二つのアメリカの学会の長をしていたというのは、まさにBrown先生の両面にわたる幅の広さを如実に物語る事実なのでしょう。

 当時すでにAmerican Institute of Indian Studiesというアメリカの研究所が出先としてあったのですね。今日では、東大などでも海外での拠点のようなものをもつようにしております。しかしいまだに日本ではインド研究の拠点はないのです。前田先生がアメリカに留学されたことによって、まず現地インドに足を運ぶことができた。それが先生のご研究の写本収集にも密接に関係があると同時に、生のインドをここで見る機会を得られた。もう一方においては、ドイツに行かれてHacker先生に学んだ厳密なヨーロッパの文献学が、前田先生のシャンカラの代表作品のテキスト校訂や、シャンカラに帰せられた300以上の著作の真作偽作問題の精査に大きく活かされている。

 インドに留学にされ、それからドイツに留学されたという二つの違う方向を導いてくださったのがNorman Brown先生であり、Norman Brown先生の下に行くように指示をされた中村先生のお計らいなのではないか、そのように拝聴いたしました。前田先生の誠実で温和なお人柄、そしてそれぞれの先生から受けたご指導のもとでゼロから忠実に勉強し尽くそうとされる真摯な研究姿勢があるからこそ、いろいろな師との出会いが前田先生ご自身の研究にも十全に活かされていったのだろうと思いました。

 予定していました時間80分が大分迫ってまいりましたなので、少し先を急がせていただきます。その後、先生は1968年の6月までペンシルバニア大学の助教授をなさって、その後に帰国されました。帰国後、東京大学の助教授に就任されるまでの5年間がたいへんな時代だったのではないかと拝察します。その時のご苦労話を少し伺ったうえで、日本のインド研究の発展と日本南アジア学会の創立についてお話を続けていただければ幸いです。

 

●前田 アメリカには通算10年間いたのですが、あるとき娘が当時の大統領を呼ぶのに「Our President」と突然言いだしたのです。「日本にはPresidentはいないのに、Our Presidentと娘に言われちゃ困る。どうも長くいすぎた」ということで「さっそく帰りましょう」ということになったのですが、現在と同じように就職難でした。インド哲学はもともと就職難だったのですが、たいへん厳しい状況でした。

 しかし中村先生にお願いしましたところ、財団法人鈴木学術財団というところをなんとか見つけていただいて、そこで糊口をしのぐことになりました。しかしそこも就職し、皆さんに挨拶状を出したその日に倒産して、破綻をきたしました。幸い財団の理事長さんが銀行の頭取をしておられてなんとか命脈を保って、そこでした仕事の一つが財団法人鈴木学術財団編『漢訳対照 梵和大辞典』(講談社、1986)です。

 この大事業は、もともと昭和3年に仏教語彙の研究で世界的に名声を博しておられた荻原雲来博士によって開始されたものです。しかし編纂事業は開始されたけれども、第二次世界戦争のために、途中第6分冊までしか出ていなかったのです。幸い故土田勝弥氏の草稿やカードなどが大正大学に保存されていましたので、戦後になって、それをなんとか完成させようということで、鈴木学術財団が引き受けることになったのでした。この財団の名前の「鈴木」というのは、鈴木大拙師の鈴木をいただいたものです。

 このとき鈴木学術財団の文化委員会委員長として東京大学名誉教授で学士院会員の辻直四郎先生がきておられて、『梵和大辞典』の編集も手伝っていただくことになりました。われわれが作った原稿をもってまいりますと、辻先生はそれを丹念にご覧になられて、赤をいれられ、ついに完成というところまでもっていくことができたのです。この仕事は、私の人生の暗黒時代の唯一の灯火で、自分の研究は出来ませんでしたが、私としては大変に貴重な経験の一つです。

 このとき鈴木学術財団がもっておりました『梵和大辞典』の著作権料が、現在の日本印度学仏教学会の鈴木学術財団賞の賞金になっているのです。インド学仏教学の諸先輩方と私ども財団の研究部に籍を置いた部員の血と汗の結晶が、こういうかたちでまた活かされているのは有り難いことだと思っています。(最近になって大辞典が売れなくなり、賞の存続が危ぶまれましたが、版権が講談社から仏書専門の山喜房にゆずられ、山喜房の好意で賞が存続することになりました。)

 日本に帰ってきて日本の学会に戻るわけですが、ご存じのように、日本で主として古典インド研究をしている学会に、日本印度学仏教学会がございます。そこでは古典インドといっても、仏教が主たる関心事で、いわゆるインドの文学やインド哲学などは、仏教研究の補助学のような扱いを受けている状況でございました。しかし1960年代になりますと、先ほどインド政府の奨学金が出されたと申しましたが、たとえば中根千枝先生とか荒松雄さんとか、そういった優秀な方がたが奨学金を得て、現地で研究をして戻ってきて研究を発表されるという、そういう時代にだんだんなってきたのです。それまでの日本の印度学、仏教学あるいはインド研究というのは、ヨーロッパの学問の滓を使って、第二次資料で行なっていた。ところが、日本人も第一次資料を扱いうる状況に1960年以後にはなってくるわけです。

 今日もこの前に行なわれておりました農業の研究発表を聞いておりましても、みなさん現地に行って掘り起こされた研究成果を発表されていますが、1960年代まではそういうことはまずなかったのです。それが1960年代以後になって、第一次資料を扱う研究がどんどん進められていった。それもいろいろな領域や分野の方がたが乗り込んでこられました。歴史学がはじめですが、それ以外にも地理学とか自然科学の領域からも、インド研究に進んでこられる方がどんどんと増えてまいりました。

 そうなると学会としては、日本印度学仏教学会では対応できない。会員のみなさま方の目的を達成できない。そのような雰囲気になってきまして、亡くなられて久しいですが、松井透先生が中心になりまして、皆様方の学会であります南アジア学会の創立となったわけです。そのときの創立メンバーの一人に私も入らせていただきました。古賀先生もたしかそうだったと思っております。

 この南アジア学会の成立によりまして、私のアメリカでの経験と申しますか、学んだことの一つをこのようなかたちで活用できましたことを、私は喜びにしております。

 

●丸井 どうもありがとうございました。日本南アジア学会の創立までお話しいただきました。おそらくインド哲学や仏教学の研究を、生のインドを見ることとは切り離して考える学者が当時もいらっしゃったと思います。しかし前田先生はアメリカに留学されて、Brown先生について、そしてご自身もインドに留学されて生のインドを見て、そこから学問を立ちあげる。そのような先生ご自身のあゆみが、南アジア学会の創立に発起人の一人として関わられたことにも大きかったのですね。

 その後、日印の学術交流について先生はずっとご尽力なさっているのですが、その一つが日印学術交流委員会です。このことについて先生に少しご説明いただければと思います。

 

●前田 私は先ほど触れましたアメリカのAIIS、American Institute of Indian Studiesで、インドに行かせていただくことができました。そのことが大きな経験の一つでありますから、日本でもAIISやドイツのMax Muller Bhavanに相当するようなものが作りたいという考えをもって戻ってまいりました。なんとかいろいろとやっておりましたが、仲間が一人ありました。それは東洋史の辛島昇先生です。辛島先生が朝日新聞に論陣を張られまして、日本もAIISに似た施設を現地に作るべきだという主張をしておられました。私とちょうど同じ頃マドラス大学で研究されていた辛島先生は、その必要性を痛感されたのでした。二人で協力して運動を始めたのですが、なかなかうまくいきませんので、中根千枝先生のお力を借りて仕事を始めたのです。

 それが実現できないうちに、中根先生から一つの話がありました。中根先生と仲のよかったIndian Council of Social Science Research(ICSSR)のメンバー・セクレタリーをしていたSukhmoy Chakravartyという先生が、「日本とインドとの学術交流をしたい」ということで、自らデリーで1992年に日印の国際会議を開いていただいたのです。そのときにまいりましたのが中根先生と松井透さんと私、私の家内もそのとき同行しましたが、それは辛島先生がちょうど病気になられまして、行けないということで代理出席のようなかたちでまいりました。それが最初の日印の国際会議というかたちで行ったのですが、残念ながら程なくしてSukhmoy Chakravarty先生が亡くなられてしましました。

 残念に思っておりましたら、日本学術振興会から中根先生に「インドで調査をしてきなさい」という命令が出ました。中根先生をリーダーとして、松井先生と私と私の家内もまいりましたが、荒松雄先生もそのときいっしょに行かれました。インドのIndian Council of Social Science Research (ICSSR)、 Indian Council of Philosophical Research (ICPR)、Indian Council of Historical Research (ICHR)、 University Grants Commission などのインド政府の関係機関を回り歩いて、第2回の国際会議が開かれる可能性を掴んで戻ってまいりました。

 第2回の日印の交流セミナーは、中根先生によって組織され、1992年9月10~11日に東京のガーデンパレス・ホテルで開催されました。そのあと人文社会科学の領域における日印学術交流委員会が正式に学術振興会から認められて成立しました。最初の委員会は、中根千枝(委員長)、辛島昇、松井透、前田專學、柳沢悠、山口博一の6名から成っていました。自然科学における同種の委員会はすでにできていると聞いておりました。

 第3回セミナーは中根先生と内藤雅雄先生の手によって組織されました。先ほど押川先生からお話があったように3冊の本Towards Understanding Each Other: Fifty Years’s History of India-Japan Mutual Studies, ed. by Chie Nakane and Masao Naito(Tokyo: The Committee for Japan-India Academic Exchange, 2000)を提供しましたが、それがそのときのレジュメです。第4回はインドで開催されました。

 みなさま方のお手許に資料があるかと思います。私が中根先生に、遅まきながら第5回の日印セミナーのレジュメを纏めていると報告した折に、是非今までのことを纏めておいて欲しい、と言う要請がありました。しかしその時はすでにレジュメは完成にちかい状態でしたので、そのレジュメの末尾に「ポストスクリプト」(POSTSCRIPT to Spread and Influence of Hinduism and Buddhism in Asia, ed. by Sengaku Mayeda and Masahiro Shimoda, Delhi Originals, 2010)として第六回までの簡単な記録をまとめ、その原稿を中根先生にみていただきました。しかし残念なことにそのポストスクリプトは本に組み入れられることなく、印刷の途上で脱落してしまいました。(当日参考資料として配布されましたPOSTSCRIPTは、こちらからPDFファイルで参照できます)

 第6回で、日印のセミナーは終わってしまっております。日印学術交流委員会はまだ終了宣言はしておりませんので、続いているのだと思います。現在の委員長は水島司先生です。こういう実績のある委員会ですが、実際問題としては、おそらく再開は難しいかと思います。その一つの原因は、日本では学術振興会という一つの政府の機関で学術の全領域をカバーしています。しかしインドではそうではなくて、Indian Council of Philosophical ResearchとIndian Council of Historical Research、それからIndian Council of Social Science Researchという三つの機関が人文・社会科学をカバーすることになります。そのために日本側は日本学術振興会1本でいけるのですが、インドでは3Councilsがまとまらないといけないのです、それがなかなか容易ではありません。

 そういうかたちですから、なかなかまとまりがない。インドというのはまとまりがないところの代表のような国です。しかしそうかと思うと、パッとまとまってしまうところもあります。なかなか難しいかもしれませんが、AIISに匹敵するJapanese Institute of Indian Studies(JIIS)というものがインドにできることを切に願っております。できるだけ、そのような努力をみなさま方もしていただければと思います。

 

●丸井 どうもありがとうございます。中村先生は印度学、仏教学という立場からインドの歴史研究もなさっていて、たいへん幅広いパイオニアでした。しかしそのあとに続くインド研究は個別化の方向が強まりいろいろなインド研究の諸分野がそれぞれ発展していく一方では、むしろ各分野が孤立していく傾向にもなり、全体的な視野が見失われがちな弊害にもつながっているように思われます。インド哲学の研究においても、文献実証性というサイエンスの側面では、写本にもとづくテキスト批判や電子テキストの活用による緻密な用例研究などによって、正確さ、緻密さの度合いが断然高まったことは確かなのですが、歴史学や文化人類学などの諸分野との相互の交流は、かならずしも発展していないという現状にあることはたしかです。

 前田先生をはじめとする日本南アジア学会を立ちあげた先生方からすると、かならずしも現状は思うとおりに進んでいない。すでに触れましたように、インド哲学研究をするうえで難しいと思うのは、一方においてテキストの校訂研究とか厳密な原典解読が進めば進むほど、全体的な視野を失う。とりわけ自分が研究者として携わっている学問のディシプリン、境界というのでしょうか──自分はディシプリンとして関わっているけれども、それは研究者としての限界であって、それにコミットしている生の人間はもっと幅広く見られる視点がないといけないのですが、やはり埋没してしまう。歯がゆい思いです。

 とりわけ難しいと思うのは、インドの哲学といわれているものについては、インド哲学者が生きた時代、それから社会、これが見えにくい。哲学文献とされるテキストに記された内容の抽象度がきわめて高い。私がインドに留学したときに3か月ほどついた先生の自宅に寄宿したことがあります。その先生のお家の裏に、リキシャ・ドライバーだと思うのですが、彼の家族が住んでいて、彼らの声がときどき聞こえるのです。私の先生はインド論理学の研究者でしたが、ご自宅の裏で生活する彼らのことを思いつつ、「インド哲学というのは、彼らのことについてあまり考えてこなった。それは問題です。」と先生自身がもらされていました。哲学研究を厳密にすればするほど、現実のインド社会、インドの一般の人びとの心に届かない部分がある。ですから、なんとか別の角度から考え直していかなくてはいけないのですが・・・。

 中村先生ご自身も、ある時期から「過去の単なる遺産を研究しているだけでは、生きた人間に届かない」ということで転換なさった。そういう大きな転換が求められていると思うのですが、これはわれわれの世代、あるいは今後のインド研究を背負っていく世代の責務であるかなと思います。

 前田先生は東京大学に1991年までお勤めになって、その間に日本学士院賞を受賞され、東大定年後は武蔵野女子大学教授もなさり、2002年には勲三等を受けておられます。中村元先生がお亡くなりになったのが1999年のことですが、先生が武蔵野女子大学をお辞めになってからここ13年か14年ほどでしょうか、先生がもっともお力を注いでおられるのは中村先生の残された公益財団法人中村元東方研究所、以前の東方研究会という財団組織です。ここにすべてを捧げられていると思います。そのお話を最後にお伺いしたいと思います。

 

●前田 中村先生が亡くなられる少し前に、東方研究会(現在の中村元東方研究所)の忘年会の折りに、良寛の〈形見とて、何残すらん、春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉〉を引用され、「自分はいままで生きてきたけれども、なにを残しただろうか、なにも残さなかったかも知れない」ということを最後におっしゃいまして、「しかし一つだけ人様に言えることがある。それは東方研究会ですね」ということを感慨深げにおっしゃったことがあるのです。

 東方研究会というのは、若手研究者の育成が目的の一つです。中村先生がお若いときに、自分の先輩が就職できなくて餓死してしまったという例をご存じで、そのことが自分の心に響いていて、その結果、一つのかたちとして東方研究会というものが作られております。そういう若手研究者の育成、確たる就職ができない、そういう人たちをなんとか支えていこうということを目的に作られたものです。それとインド学、仏教学などの研究ももちろん目的で、その普及も目的です。そういう使命をもったものが東方研究会です。

 中村先生は今年が生誕100年で、先生の功績を称えようということで記念事業を開始しました。松江が中村先生のお生まれになった場所で、そこに大根島という島があるのですが、そこに2012年の10月10日、先生のご命日に、中村元記念館が創立されました。インド大使も2度も来訪され、たいへん感激してお帰りになりました。そこには東方学院の松江校を附属させまして、インド学、仏教学を中心とした講義をするようになっております。丸井先生にも来ていただいて、貢献をしていただいております。

 最後に一つ残っているのが、私の余技です。ラフカディオ・ハーンの研究を若干かじっておりまして、資料の私の主要業績の最後に一つ加えておきました。「ラフカディオ・ハーンとヒンドゥー教」という、これは論文のタイトルです。これを拡大したようなものを目下準備しております。それをまとめたものができればありがたいと思っています。

 

●丸井 ありがとうございます。ハーンは松江ともご縁があります。中村先生の生誕100年を記念して、松江に中村元記念館ができあがりました。そのあたりも不思議なご縁であるし、先生が日印の学術交流を一貫して続けておられることも痛感いたしました。中村元記念館ができて、インド大使のワドワ閣下が二度も訪れています。そのときの大使の言葉が、みなさんのお手許の資料の最後に書かれています。たいへん感激なさっています。

 それから山陰インド協会ですか、少しこのことについてご説明ください。

 

●前田 中村元記念館が10月10日に創立されたのですが、それを機縁として、鳥取と島根はこれまで協力してものをすることがなかったそうですが、鳥取と島根がそこで結びつきまして、鳥取県と島根県の財界・政界の主立った人たちが会員となって、山陰インド協会というものができました。これは日印の交流をめざしています。日本では新潟県に一つそういう協会があるだけだそうです。その地方の日印交流のセンターというかたちで、日印の絆として今後も活動していければと私は思っています。みなさま方のご支援もいろいろなかたちで受けられればと思っております。もし島根に行かれる機会があれば、ぜひ中村元記念館にお寄りいただければと思います。そう言えば、2013年には日本印度学仏教学会を、2014年には比較思想学会を松江に招致いたしました。近い将来南アジア学会も松江にどうぞお出で下さい。

 

●丸井 南アジア学会のみなさま方で、まだ松江の中村元記念館に行かれていない方は多いかと思うのですが、仏教が伝来したのは6世紀中頃ですが、松江には6世紀後半のお寺や神社がたくさん残っています。私も昨年初めて訪れて、すばらしいところだと思いました。風光も明媚だし、古い文化がほんとうに残っている。仏教伝来、つまりインドからはるばる朝鮮半島を経て日本に伝わったインドの文化を古くから受け止めている地です。そこに現在の経済発展が進んでいるインドとの間に交流が生まれたということは、新しい日印の関係を構築するうえで松江が一つの拠点になるのかなと思います。

 経済発展すればするほど、私たちのようなあまりお金にならない、地道な学問研究が果たすべき役割があるのではないか。それは単なる日本とインドという二国間だけではなく、水島先生もグローバルな歴史という視点が重要だとおっしゃっていますが、人類の社会が進んでいくべき道というものを、古い文化の足どりを研究する者たちが将来の見通しをもって発言すべきときがくるのではないか。現在もそのときであろうかと思いますが、ますますそれが重要になってくるのではないかというなかで、今日は先生のお話を、最後の最後まで日本とインドとの交流に先生がご尽力なさっていることを印象的に受け止めさせていただきました。

 はなはだ行きとどない進行でございましたが、以上で本日のインタビューを終わらせていただきます。前田先生、押川先生、そしてフロアのみなさまどうもありがとうございました。

 

●押川 お疲れだとは思いますが、2、3、フロアから質問を受けてもよろしいですか。

 

●前田 はい。

 

●柳澤悠 今日はありがとうございました。じつは私は南アジア学会の創設のときから事務をしておりまして、前田先生をはじめみなさまの学会を作る経緯を割合よく知っております。

 そのなかで、日本でも各地についての地域研究学会があるなかで、南アジア学会は、古典学とか現代の政治や経済など、いろいろな立場の、またいろいろな分野の学者が混ざって交流するという点を最初から意識していた。そして、それがかなり成功したのではないかと思っています。そういう点では、日本の地域研究学会のなかでも、唯一かどうかはともかくとして、かなりユニークな特色をもっているだろうと思います。

 私が知っている若い人のなかでも、サンスクリットを勉強しながら、古典学についての知識をもちながら、現代の社会を研究する。現在の政治というものは、やはりそこから無縁ではないわけで、実際に両方を実践して、両方を勉強する人がいるわけです。けっして多くはないでしょうが、そのような人が育っていることも、学会自体というよりも前田先生たちが作られた雰囲気のなかでできたのだと思います。それをNorman Brown先生以来のご経験のなかから考えられたと今日お聞きして、たいへん感銘を受けました。ありがとうございました。

 お聞きしたいことは、私の場合は社会科学ですが、よいとか悪いとかは別にして、この数十年間に研究者の意識もかなり変わっていると思うのです。きっとインド学、インド哲学の分野でもそのようなものを感じられているかもしれない、それは日本だけではなく、国際的な学問に対するモチーフやエモーション、あるいは手法もあると思いますが、いろいろなものが変わっているのではないか。そのあたりについて、前田先生としてなにか感じられていることがあったら教えていただきたいと思うのですが。

 

●前田 日印学術交流委員会のことに関しては、柳澤先生のご努力がなければ続けられなかったものです。ほんとうに縁の下の力持ちをずっと続けて、最後までしていただいた方であります。先ほどの話では先生のお名前を出さなかったなと思って、いま後悔しているところでございます。たしか資料には入っているのではないかなと思っております。長い間のご厚誼、それからご助力に、ここで心から厚く御礼を申しあげます。

 ご質問があった最近の新しい傾向のかたちは、私はまだよくわかっていないところがあります。今日も聞いておりまして、ずいぶん違ったなと思いましたが、どれがどうということも申しあげることができないので、申し訳ありません。先生のほうがよくご理解なさっているのではないかと思っております。どうでしょうか。

 

●水島司 今日はすばらしい会だったと私は思います。南アジア学会でこんなに感銘を受ける会というのは私自身あまりなかったので、この機会ができた、またご協力いただいたことにたいへん深く感謝しております。もっとこの会場に若い人がいるべきだと思いましたが、それはわれわれがきちんと伝えていけばよいことです。日印セミナーについては、丸井さんが先ほどおっしゃいましたように前田先生がやわらかい感じでおっしゃってはおられますが、前田先生から日印学術交流委員会の長を引き継いだ私が十分に動いていないことへのお叱りを受けているということがありまして……。(笑)ただ、これにはちょっと事情があります。私が受け継いだ時期から、かなり大きな科学研究費や重点領域研究が続いていまして、実質的には頻繁にデリーでシンポジウムやワークショップをしています。私もこの12月(2013年)に20人くらいのセッションを2日間にわたって企画しているところです。というわけで、実質的にはかなりの交流が進んでいます。私だけではなく、他の様々なグループも、インドの研究者と日本の研究者が対等に企画して、例外的ではなくて、レギュラーな活動として行うようになってきていると思います。

 それを現地での研究所の設立というかたちにもっていくときには、いくつかハードルがあるとは思います。じつはかなり以前の段階で、柳澤さんなどとIndian Council of Social Science Research (ICSSR)とのMOUの件で学術振興会に出かけたことがあります。1992年に公式にアグリーメントが成立したということで、ひょっとしたら受け継いだ際に私もお聞きしていたのかもしれませんが、そのことは頭の中にまったくなくて、学振はこちらが陳情に行って、それを受けて学術交流を主体的に進める立場なのかなとずっと思っていたのですが、どうもそうではない、つまり、研究者コミュニティーの方でお膳立てするということのようです。

 私は半年のサバティカルに入ったところで、この冬にデリーに1か月以上滞在する予定です。今回の学会には、Indian Council of Historical Research (ICHR)の方もお招きしています。どのようなかたちで日印学術交流を発展させることができるのかは今の段階ではよくわかりませんが、また前田先生のやわからい感じで重いことを引き受けざるをえないかなという感じで聞いておりました。(笑)

 というわけで、これまでの経緯について、教えていただけますでしょうか。

 

●前田 たぶん私よりも柳澤先生のほうが、この点はお詳しいのではないかと思います。柳澤先生いかがでしょうか。

 

●柳澤 アグリーメントが成立した当時は、前田先生が当事者でいらっしゃったと思います。協定の内容について記憶は定かではありませんが、両国で委員会を作る。その委員会のインド側の「ノーダル・オーガナイゼーション」と言ったと思うのですが、ようするに窓口となる組織はICSSRが調整組織になる。日本側は中根先生が代表をする委員会が対応をするというような組織になっていたと思います。

 その体制で、その後何回かの国際会議を両国で交互に開催しました。私の記憶では2003年だったと思うのですが、学術振興会から積極的にICSSRに働きかけたのですが、ちょうどICSSRのメンバー・セクレタリーが激しく変わる時期にあたってしまったのですね。それによってすれ違いが生じて、齟齬が生じて進まなくなってしまった、ということだと思います。

 

●押川 柳澤先生よりも少しだけ若いので、司会が申し訳ありませんが、最後に一つだけ質問させていただいてもよいでしょうか。最初にマドラス大学に行かれたとき、インドの印象をどのようにお感じになられていたでしょうか。なにをもっとも強く感じられたのでしょうか。

 

●前田 最初にマドラス大学へ行ったときのインドの印象は、もう半世紀も前のことで思い出せません。私の場合、夫婦で2歳の子供を連れて、当時世界一生活水準の高いアメリカから、東京、香港、バンコク、マドラスと、それぞれに慣れながら、マドラスに参りました。マドラスに着いて、大学に行く前に、間もなく長年罹ったこともない扁桃腺炎に罹り、40度以上の熱を出して、たいへんな苦労をしました。「これはたいへんなところに来たものだ」という思いでした。幸いブラウン先生がかつてマドラスに行っておられて、そこのお医者さんを知っておられたのです。イギリスから来ているお医者さんで、名前を忘れてしまいましたが女医さんがいて、その人を頼って行って、そういう点では安心したところもありましたが、たいへん苦労をしました。

 私が最初に行った時代と今とは大分違うとは思いますが、ブラウン先生の過去の体験が、役立つたように、単に健康上の事だけではなく、研究を進める上においても、「日本インド学研究所(仮称)」のような拠点があれば、先人の貴重な体験が蓄積された、息の長い地道なインド研究が可能になるのではないかと思います。

 

●押川 前田先生、丸井先生、貴重なお話をいただき、ほんとうにありがとうございました。このような機会がもてましたこと、心より感謝申し上げます。