学会と南アジア研究の歩み
学会と南アジア研究の歩み
1988年の本学会の設立は日本における南アジア研究の結節点をなすものでした。
仏教学など少数の分野をのぞき、日本で南アジア諸地域・諸分野に関する本格的研究が始まったのは第二次大戦後のことです。当初は研究資金や外貨獲得が困難ななか、専門外の様々な知識・手段をも動員して国内外での研究調査を実現させた研究者(隊)もありました。社会政治変化と経済成長にともない、大学等の研究機関の再編・整備・設立、科学研究費その他(公私)の補助金・助成金制度の発足・増加が進み、1963-4年には海外渡航規制や外貨規制が取り払われ、以後、海外調査が格段に増加しました。関係諸学会・研究会の発足・充実、研究者数の増加、共同研究を含む研究成果の蓄積は顕著で、学際性の高い研究の組織化もみられました。対象地域の言語を用いて調査研究を行うことも常識になり、また電算機を利用する研究も進み、既に国際的な成果もあがっていました。諸分野の協力の必要性・可能性の意識は高まっていたといえましょう。
その流れのなか、研究の多様化や対象地域の特定化による研究の分散化の傾向をみてとり、「多種多様な研究成果を、異なった専門分野や異なった地域に関心を持つ全国の南アジア研究者の間で共有し、円滑な学問的交流を保証するような全国的な場をつくり出す」必要性を強く意識し、それを組織形成に結びつけたのが本学会の創設メンバーでした(「日本南アジア学会創立趣意書」)。そこには一次史資料を駆使し国際的研究を行ってきた南アジア研究者が全国的レベルでつながり、国際性・学際性を高め研究を高度化し、一方では後進の育成をはかりつつ、新しい南アジア研究を構築しようという意気込みがありました。
本学会の目的は、南アジア地域を対象にして、学術的研究の発展・普及をはかることですが、その学問分野としては当初から「人文科学・社会科学のみならず自然科学も含むものとする」との方向が掲げられ、国内外の共同研究の立案・実施も目指されました。その目的達成のため、本学会は年1回の研究大会の開催、学会誌『南アジア研究』の刊行を続け、他の事業を充実させてきました。広報活動は当初の和文・英文のニュースレターからホームページに移り、関連する様々な活動の常時参照が可能になっています。10周年の節目には英文叢書シリーズを発足させ、現在8巻に至っています。20周年に際しては『南アジア研究』と英文学会誌を分け、学会賞を設け、また記念連続シンポジウムを開催しました。それらは、国際性・専門性の強化、若手研究者の研究奨励、「南アジア研究」自体の促進を目的としていました。その後、英文学術出版物刊行助成も加えられ、国際的な発信が強化されました。本学会の会員数は当初は100名強でしたが、現在は約570名に達しています。本学会の研究対象・分野は多岐にわたりますが、当初の目的にある自然科学を含む方向は、農学、環境学等の少数の研究者の参加以外あまり達成されていないのが実情です。
南アジア研究に携わる人文・社会系の国内外の研究者に研究発表・交流の場を提供し研究を促進するという側面では、本学会のこれまでの活動は実りあるものでした。学会出版物は総体としてそれを示していますが、トピックによっては、国際的広がりももった活発な議論の場となってきました。論文、研究ノートの多くは一次史資料に基づいた実証的なオリジナリティのある研究で、その蓄積は世界の学問財産になり得るものです。歴史学分野の研究はその代表で、南インドをはじめとする各地域を対象に、研究者によっては(地理情報も含む)大量データの電算処理も駆使した研究を進め、実証性、理論性をもって長期の変化をも論じるようになっています。もう一方の柱のインド学・仏教学の方はより文献学的で、軸足が国内外の他の学会にある研究者も少なくありませんが、文献を読み込み(また電算処理し)ながらも実地に儀礼等の調査を行ってきた会員も何人もみられ、中には古典から現代の宗教や文学まで見通す研究もあります。現代社会の分析では、たとえば民主主義や権力あるいは人口移動等の問題をめぐって、地域横断的かつ分野の枠を超えた(あるいは取り払う方向の)研究もみられ、この面でも当初の目的に沿った充実の方向が窺えます。また他の諸分野での研究の蓄積も顕著です。一方、当初目指された国内外の共同研究の立案・実施はそれほど進んでいません。この点は、諸研究機関、科研費の諸費目、人間文化研究機構などの様々なプロジェクトに学会員が関わるという状況もあるので、今後の方向と具体的な活動について今一度考えておかないといけないでしょう。
学際性の向上は、世界の思潮の転回や南アジア諸地域の政治・経済・社会変化によっても促されていますが、『南アジア研究』は折に触れ特集、座談会などを組んで諸分野間で議論を戦わせています。なお一方では、国際的競争に耐え得る成果を出すために専門を絞る戦略をとる研究もあります。
国際性向上の面では、学会大会において国外からの発表の公募を行う努力も2014年以来なされています。大会は、会員数の少なかった当初の参加者全員が一室ですべての分野の研究発表に触れられた状態から、今日ではいくつものセッションに分かれる形になっています。そのなかで、いかに総合的な理解を促進できるかは検討すべき課題です。
「新しい総合的な南アジア研究」あるいは「南アジア学」の構築は、本学会が「南アジア学会」を標榜する限り大きな命題であり続けます。ただ多くの学会と異なり「南アジア学」を自らの専門分野と表明する会員はほとんどみられず、この命題は理想の追求のレベルにとどまっています。現実的な方向としては、特定のトピックについて南アジアの地域を横断し、かつ分野も横断するような研究を促進し、それが特定分野・地域の理解の深化につながるということを示しつつ漸進して行くことが求められます。「南アジア」が有効な単位であり得るかという地域学会特有の問いも、時代の変化に応じて問い直されていくべきものと考えます。
石井 溥(元日本南アジア学会理事長)
2017年5月11日